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2016年04月14日06:32

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ヤクザと憲法

 
【ヤクザと憲法】
 
昨日ようやく話題のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』を観た。たしかにおもしろい。暴対法、暴排条例でヤクザたちはシノギどころか基本的人権まで奪われ、疲弊の一途にある。疲弊すると意外に人間的にもみえる。それで彼らの生活のディテールが微苦笑をさそう。銀行口座がつくれない。給食費がはらえない。保険がかけられない。クルマをこすって直しをしようとして、ヤクザの身分を偽ったと詐欺容疑になる。
 
東海テレビのクルーは、大阪・堺に本拠を置く二代目東組二代目清勇会にはいった。冒頭に撮影方針が出る。撮影にともなう謝礼は一切なし。映像そのものは公開までみせず、内容にヤクザたちの容喙をみとめない。モザイクは基本的にもちいない(ここが通常のTVドキュとおおきくちがう)。
 
なぜヤクザたちが撮影を許可したのか。ひとつは窮状の訴え、ひとつは「それでものこる」自己顕示だろう。「ここは写すな」というヤクザ側の「撮影中の」検閲があり、画角を変えてでもカメラを回すクルーたちの執念がある。駆け引き。しかも誇示できる「いいところ」などヤクザたちにはほとんどない。だからもろもろがバレてゆく。そのようなかたちで撮影が一見成功しているようにみえる。だがはたしてそうか。
 
たしかに会長の男ぶりは抜群だ。惚れ惚れする。部屋住みの子と叔父貴との交情もある。こわもてだがやさしい組員が日本国籍をもっていない。些少な罪での服役、それから出所という苛烈な反復もある。「いろいろ」が写される。あるいは電話があってシャブを夜間、クルマで配達する(シャブとは明示されない)営業にもクルーは同行する。
 
ところがないものがある。刺青の描写、部屋住みの子への、扉を隔てた折檻(音声のみの描写)がただひとつあるほかは、ヤクザがヤクザたるゆえん、その怖さが描かれない。だから観客は安心して微苦笑のなかにいられる。女たちからの搾取がえがかれない。多様な種類で存在しているだろう恫喝、怖さを演出する会話の「間」なども作中に存在していない。
 
作中にヤクザがどう発祥したかの歴史的説明がテロップでながれる。江戸時代の火消から発祥した一説を紹介、賭場の仕切りと祭りの露店商の差配をしたと。意図的にテキヤと起源が混淆され、ヤクザの特殊性がきえている。みかじめ料をまきあげる自助組織の擬制、芸能や売春の元締め、人足の差配と搾取、それから昨今にはいっての企業恫喝、非合法経済活動、クスリ……ヤクザのつくりあげる闇はほんとうならもっと膨大で濃いはずだ。新世界の飯屋のおばちゃんを例外に、女が画面にほぼ映らない。撮影になにか浄化の作用が介在していると気づかなければならない。
 
ドキュメンタリーのクルーたちはなんとかヤクザの生態や生活の実質を、こっそりとでもいいから捉えようとする狡猾な面があるにせよ、基本的には撮影対象=ヤクザたちと狎れあいになった。ドキュメンタリーで望まれるのは、稀少社会からの真実の剔抉だけだろうか。撮影主体と撮影対象の関係そのものに観客は打たれるのではないだろうか。
 
両者が過剰に劇化する例なら原一男『ゆきゆきて、神軍』にある。撮影主体が主体化して対象を幾何学的に再組織、情動の直線をつくった例なら大島渚『忘れられた皇軍』にある。撮影主体が過激に透明化し、記録の起点が零度になる例なら想田和弘の「観察映画」にある。過激な主体透明化が「しかも」いかがわしい例なら中国の王兵にある。ドキュメンタリー『ヤクザと憲法』はそれらのいずれでもなく、それらの折衷的な中間でもない。だからこの作品に満足することは、ドキュメンタリーへのリテラシー低下とも対なのではないか。
 
疲弊は現代的な主題だ。いっぽうメランコリーは超時間的な主題だろう。メランコリーはひとを愁殺するが同時に暴発する。じつはこの作品を観なければと思い立った理由は、そのまえ授業準備で(『ソナチネ』から『極道黒社会』『helpless』にいたるポストヤクザ映画の嚆矢となった)川島透=金子正次の『竜二』を観なおしていたためだった。ヤクザ生活に疲弊し、倦み、困憊し、「放心」し(ここがメランコリーの第一弾)、いったんはカタギになったものの、おなじ疲弊以下が起こり(ここが第二弾)、最終的には暗示の状態でひとりの男のヤクザへの復帰がえがかれる(ここがメランコリーの暴発、そのまえには永島暎子が特売コーナーに並んでいる)。金子の身体が自己愛的だが鉛色に捉えられ、金子の声がふかく響いて、いわばフィルムの質感の問題も起こる。ところが『竜二』に触発されて観た『ヤクザと憲法』にはこの質感の問題がなかった。
 
たしかに「異物」を徹底的に排除する政治どころか人心の「ネオリベ」的現実に、ひそかな異議申立をしようとする作品の立脚には共感できる。だが肝腎なことが閑却されていないか。端的にいえば「一般人社会」と「ヤクザ社会」は非対称だ。この非対称性は解決不能性であって、そこからうごきだしてくる希望も絶望も、とうぜん「一般人社会の尺度」とは次元がことなる。ところが作品はTV的な平準性により、それを「一般」尺度で描写してしまった。清勇会事務所内の空間の明瞭性、もっといえばあかるさは、この点と関係しているだろう。視界をふかくするのは、地霊をもとめる朝倉喬司的な流浪のはずだ。
 
いいおとしたことがひとつ。作品は傍流として、山口組の顧問弁護士・山之内幸夫の現在の疲弊もとらえてゆく。ここもなかなか良い。監督=土方宏史。4月13日シアターキノの満員の客席で鑑賞。客席からはちいさくだが、笑い声がしばしばひびいていた。
 
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