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2015年05月27日10:23

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望月遊馬・水辺に透きとおっていく

 
待望の望月遊馬さんの新詩集『水辺に透きとおっていく』(思潮社刊)がとても良く、再読をたのしんでいる。ぜんたいはぼくのみるところ、三パートに分割されている。
 
第一が冒頭の詩篇「ありうべき家族に宛てた手紙」で、数年の家族サーガが年と季節にまたがって叙述される。詩的でおとなしい文体から、母を喪失した感覚の、にじむような悲哀がたどられてゆく。虚構性を前提にしているのではないか。小説の叙述と相通じるものもある。
 
第二が本日これから語る行分け詩のパートで、ここでは静謐な詩的文体で脱物理的な運動がかたられる。脱物理的運動とは理路のうばわれた変容ともいえるが、望月的なそれは消滅にも漸近する。ところが消滅性が結末ではなく、どこかで蘇生の予感がぼんやりと読む眼をあかるませてゆく。詩作者の感情の質が良い。むろんこれが現在の良い詩の条件のひとつだ。
 
第三はシュルレアリスム小説をもおもわせる散文体。「少女」「少年」のときあかしがたい秘密の物語がさまざまな立脚のもと、いささかきらびやかに、万華鏡感覚までともなって展覧されてゆく。それでも話体の各所に自由関節話法的な脱意味の緩衝帯があって、どうじに詩的リズムが幾度も押し寄せてくる。箴言的な魅力が内挿されるばあいもある。脱物理的運動をともなう「変容」という点ではこのパートの目盛が最もこまかい。しかもこうした叙述法が採択されても、ことばが勝ち誇って跳ねないのが望月遊馬の得難い特性なのだった。
 
三つのパートは文字どおりには分割性を体現している。統覚できないゆれがそのまま詩集トータルの脱規定性をつくりだしながら、同時にそのことがことばのつらなってゆく組成に時空の幅をあたえている。望月さんの詩集はこれまでも再読誘惑性がたかいのだが、それは「読みきれない」残余が、あわいなにかを読後に差し向けるためだ。詩集編集の手練れだとおもう。
 
それでも三パートはフォントのおおきさのちがいをもって分立するだけではない。おなじ静謐、おなじ透明、おなじ語彙、おなじような変容が相互連絡の内孔によってパートをまたがってゆく有機性を確信させる。そこにある哲学的な意味をつかむため、今後もぼくはこの詩集を再読するだろう。
 
かたるべきことがとてもおおい詩集なので、第二パートの考察は、詩篇「真冬の葬列」の精読で代表させる。そこでいえたことは他の詩篇でもいえるとおもってもらえればよい。聯ごとの引用、そのたびの考察という形式をとってみよう。
 
木馬の
目に映る河のほとりで
あたたかな水がせりあがってゆく
わたしは
真冬の葬列にならんで
ことばもなく
ただ手を暗くおとして
口を結んでいる
感覚の先端では白い海岸が浮かんで
これは肌にかくされていたが
くだける雨にふいにひらけて
わたしを追いぬき冬の闇におちてゆく
夜を綴じるのはあなたのためで
それを知っていたのは

わたしの生理的な青を
毀れてゆく傘がうけとめている
もうすぐ
来るだろうそれを
ただ待っているのだ
ただ
 
「木馬」の木材性は、それにかたどられた眼が反映作用をともなうことで、即座にうるわしい湿潤性や光沢性をおびる。しかし無媒介に定位されたこの木馬は遊園地の回転木馬なのだろうか、それとも拷問具のたぐいなのだろうか。冒頭三行はしずかな語調のなかに、ものすごく速い位相の変転をとりこんでいる。「木馬」→「目」→「河」→「水」。ひとつめの「→」は部分化、ふたつめは周囲喚起、みっつめは再度の部分化で、結局、「木馬」と「水」は空間のねじれで離反しながらも情緒が照応しあっている。もうすでに変容が出現している。水は動詞をおびる。「せりあがってゆく」。そのことから水が主体的な意志をおびた生体とかんじられる。この増水は雪解けが原因だろうか。
 
「わたしは/真冬の葬列にならんで」で、とつぜん切断的に位相が変化する。「木馬」「河」「わたし」の位置関係がわからないこの「編集」は、映画ではジャンプカットとよばれるものだ。葬列時期は真冬。一定の隊伍をなしてゆるやかに、たとえば畔をすすむ葬いのひとびととして、わたしも参列しているのか。「ことばもなく」「ただ手を暗くおとして」「口を結んでいる」わたしの態度選択からは追悼の悲痛、厳粛がつたわってくる。
 
「木馬と河水」「わたしのいる葬列」の場面変化は並列としてとりあえず了解されるだろうが、そのあとは「モノそのものが変化し」「空間そのものに穿孔がひらいて別時間が湧出してくる」常識では了解できない変容が、強調をおこなわないしずかな口調で連続してくる。イメージにえがけない不穏当なものがことばをおおう。「感覚の先端」が葬儀参列者の追悼の情をくるみこんでいる外郭をなしているとすると、そこで「河」が「白い海岸」に変容し、しかも「尖端」なのに「かくされ」、海岸の白は肌にも反映してくる。
 
「かくされていた」ものは「ひらける」のだが、動因要素は雨で、それは「くだける」ように降り、それまで読者の意識にのこっていたはずの葬列を受難化、暗色化させる。葬列の成立する時間帯はつうじょう白昼のはずだが、そこに矛盾撞着する「闇」が示唆されて、時間の定位までぐらつきはじめる。1ショットに多時間的な衝突と展開がある(そこにディゾルヴもくわわる)実験映画的な溶融画面を聯想してしまう。高速が静謐にとじこめられている。それにしても――
 
《感覚の先端では白い海岸が浮かんで/これは肌にかくされていたが/くだける雨にふいにひらけて/わたしを追いぬき冬の闇におちてゆく》は動詞の複数にたいし、主語は「海岸」(「これ」も「海岸」を受けた代名詞ととれる)で通貫している。だから「海岸」になにが起こったかの把握が読解の主線をなすことになる。ところがたとえば最後の「おちてゆく」の主体が「わたし」だという錯視も起こってゆくはずだ。魔術的文体なのだった。
 
「夜を綴じる」は「夜を閉じる」の誤変換なのではないかと一瞬おぼえてすぐに是正の意識が生じる。「夜を閉じる」なら闇夜をたとえば扉のむこうへと遮断して身辺に朝や昼を恢復する運動を想起させるが、「夜を綴じる」なら、夜は枚数となり、それを蛇腹状の開陳可能性として「わたし」に組織する。わたしは各ページが夜である本のようなものになって内実を複数化されるのだ。ところが一行一字(転換に驚愕、別言すれば強調があたえられている)でしるされる「朝」で、「閉じる」「綴じる」の弁別がまたあやふやになる。
 
その朝は降雨の状態にある(とみえる)。わたしはおそらく戸外にいて、葬儀参列の時空とは切断されて、「ひとり」はげしい雨にさらされている。それでも濡れからは除外されているようだ。ただし以前にあった「くだける雨」という語の斡旋のつよさから、間歇的作用が起こり、「傘」は「毀れてゆく」。
 
ところが注意しよう、その「朝」では雨の字がじっさいはひとつも書かれていない。降っているのは文法的には「わたしの生理的な青」なのだった。あおくささ、あるいはブルー=かなしみだろうか。いずれににせよ、「わたし」は青に傾斜し、青に親炙する。その状態で、わたしは「それ」を待っている。「それ」は「朝」を指示しているというかんがえもなりたとうが、同時に中也「言葉なき歌」の「あれ」につうじる非限定性/限定不能性を発散しているようにもみえる。聯のおわりの「ただ」の反復は語調の抒情性を揺曳させる。
 
朝とはほどける水のこと
けれど
ゆるんだ靴紐のように夏を予感させるものではないから
わたしはてのひらをかさねて
目のうすい光に
祈りを捧げている
葬列は西日に遂げてゆき
ただかたちのないひとの列として
木馬のさきを無言ですすむのだが
そうかとおもえば
夢に
あらわれたあなたが
あらがえない呪文をちいさくつぶやいて
葬列を右へとそらせる
わたしは左へふりきれて
黒服のままで
みえないものに迎え撃つから
待っていて欲しい
 
「水」の主体的な変容意志がまたあらわれる。「せりあがる」のあとは「ほどける」。ところが「せりあがる」が意志の充実を印象させるのにたいし、「ほどける」は脱力や弱体化を紙面にのこす。「ほどける」は「ゆるんだ」を召喚し、それが靴紐をも具体化させるが、直喩でむすばれて「夏を予感させる」事物となったとき、作品が前提していた季節「真冬」に、撞着的な風穴をあけもする。読者はこれを「見消〔みせけち〕」と了解するだろう。なぜならとつぜん葬列の場面へのフラッシュバックが起こり、離反もしくは孤立していたこれまでの細部に、間歇をはさんだ同調がおきるためだ。
 
葬列の行進はながかったのではないか。陽は西日の位置に傾いている。わたしは「てのひらをかさね」る敬虔なしぐさで「祈りを捧げて」参列者のなかにいまだに存在している。「目のうすい光」は半瞑目を示唆しているのか。
 
ところがここで葬列に脱実体化の荒業が付帯してくる。「かたちのないひとの列」。葬列は視覚現象だから「かたちのない」はずはない。そうかんがえると、列を葬列として認識している読解の前提がくつがえられざるをえない。これは葬列ではなくじつは光列のようなものではないのか。望月遊馬の詩では「変容」によって脱視覚化が起こり、「あるもの」と「べつのもの」の中間態がひろがってくる。詩はイメージを生産するという古典的な詩観がとりあえず創作原理とはなっていない。
 
それでも「木馬」で葬列の位置が恢復し、「あなた」の再登場で抒情の紐帯ができる。「あなた」は夢にしかあらわれず、疎隔性をわたしに上演している。この「あなた」は、葬列に関連があるなら葬列の存在理由である当の死者になるが、判断はできない。死者と無縁な、たとえば特定の女性のような感触もあるのだった。「無言」「ちいさくつぶやいて」と音響の指示があり、「ちいさくつぶやいて」によって「無言」が際立つ仕掛け。いずれにせよことばのはこび、強調のほとんどの不在によって望月詩が静謐であるばかりではなく、具体辞により音響の水準がやはり楽譜指定されているのだった。
 
「あなた」の「呪文」は位相変転を作用させる。ちいさなつぶやきでしかないそれが、「葬列を右へとそらせ」「わたしは左へふりきれ」る。ところがこの左右は空間のなにを基準にしているのだろう。道の中央が座標を形成しているとして、ところが正対視線からと列の内在者からとでは左右の意識がまったく逆になるのだから、むしろ左右の明示はじつは空間をあいまいにする逆説まで生じさせていることになる。とりあえずは「わたし」の疎隔化、孤立化が、あなたの呪文により生じた。
 
それでも「わたし」は葬列参入者にふさわしい「黒服」でいる。隠されたこころざしもある。「みえないものに迎え撃つ」と迎撃の意志がしめされるのだが、いっぽう「みえないもの」という措辞の間接性により、「わたし」にとっての攻撃対象はついに正体をあかさない。たとえばそれは死なのだろうか。とりあえず「わたし」の迎撃の瞬間を「待っていて欲しい」と聯の終わりで告げられて、この呼びかけの相手は「夢に/あらわれたあなた」と近接するから、遡行的効果として、一聯のおわりちかくの「待っている」「それ」に、「あなた」までもが混色してゆくことになる。いずれにせよ、関係性の連絡はすべてこころもとない。それでも曖昧詩が曖昧に志向されているというより、あいまいが積極的に運動性のなかに転写されているという判断がこのあたりで生じてくるとおもう。
 
葬列
いまにもきえゆくまぼろしの時間のなかで
靄のように薄淡く
けれども確固たる意志により
行く先々でことばをあやつる
死者のことばだろうか
白馬がふいに二頭かけだしてゆき
先を争い
草原をひたはしる
そして
もつれて
雨にもつれて
光は溢れて掌におもみをおとしている
そして
濃き葉影を
水面に映している
やがてみずのうえを葬列は音もなく
すすんでゆき
ひとはだれしも肩をゆらしている
折節の移りかわるこそ
ものごとに哀れなれ
 
葬列は死者のことばの列状へと転位され、それの現象する時間は「まぼろし」で、その形状は「靄のように薄淡く」、それでも意志が貫かれている。ところがそのことばは、「ことばだろうか」と自問形を伴ったとたん、「二頭」の「白馬」になって詩の空間をほとばしる気色になる。
 
「かけだしてゆき」ののち、速さが改行所作に物理的に連結される。《先を争い/草原をひたはしる/そして/もつれて/雨にもつれて》のはこびでの一行字数のすくなさが速さの表象であり、同語・類語の降誕が制御不能性を印象させ、そこでも速さが累乗されている。むろん「速さ」と「遅さ」に弁別などない。つまり「木馬」はようやく=遅れに遅れて、「白馬」へと変成したともいえるためだ。
 
ところがカット変換は、なにかほとばしったものを一挙に回収してしまう。「白馬」の翔〔かけ〕りは、「掌におもみをおとす」恰好にふいにずれて、けっきょく白馬もまた葬列に近似する光列だったのではないかと納得のあらわれだすはこびとなる。図式に注意しよう。葬列=ことば=白馬=光列という等号連鎖なのだった。
 
「掌」の「おもみ」は像的には寸時に解消されてしまう。「白馬」は「光」となって、さらに「葉影」へと変容し、「水面」に映ることになる。確定的な物量も外容もすべてないというのがこの詩の法則なのだが、それらへ追いつくために記述そのものが脱物理化し、畸語化するともいえ、結局はヴィジョンと発語が緊密な均衡をたもっている。
 
「水面」の一語で葬列は「みずのうえを」「音もなく」「すすんでゆき」、いよいよ葬列と光列のくべつが溶融してくる。ひかりのなかにひとの像は残影となり、どうじに粒立ち、あゆみにつれて肩のゆれるようすが微視的にうかがえる。ひかりとひととの等値化。そこにこそ無常迅速がある。もしかすると古典に出典のあるかもしれないこの聯の最終二行はこうしたものの堆積の場所にみちびきだされる。どうじにイエスの特権だった水上歩行が、普遍的なひとびとによって分有される、一種の権利拡張がほのめいている。
 
柩はしずかで
なにも解さない
雪はふいに降ってきて
ひとの手に抱きかかえられた遺骨のような冬は
ただ寒々と
そこに転がってある
 
葬列じたいの自己凝視のような、ヴィジョンの内挿。冬は遺骨に直喩され、しろさをみちびきながら、ぶっきらぼうに、たとえば葬列の眼下に、「転がってある」。「転がっている」ではなく「転がってある」という修辞の斡旋に、ずんぐりとした物理性がよこたわる。うつむいて歩まれている視界を雪がかすかに荘厳しながら、葬列の参加者はみずからの影をみて、それも遺骨としているような感触がうまれるが、なぜか望月遊馬は、この聯をずれの連続により、展開しようとはしなかった。この聯の一行めの「しずか」は、断念の副産物のようなふくみを音響させているといえる。
 
いまはもう
訪れない
ただ
喪われた季節を
病めるときも健やかなるときも
あの冬の写真のように
おともなく
すすんでゆく
わたしはそのことを知っているから
数すくない遺書を
その文字を
胸に温め
ゆく
わたしは葬列をゆく
 
詩文のながれの論理構造をゆっくり咀嚼してゆくと、「訪れない」ことと、「すすんでゆく」ことが離反していない点が了解される。「訪れる」と「すすむ」は動作的には類縁関係をつくるはずだが、来訪地の目標がないとき、「訪れ」は「進み」へと動作上の意味を減少させるといってもいい。むろん「おともなく」が第三聯とは表記をかえて最小単位でルフランしていて、「おともなく/すすんで」が、「おと/ずれる」を類語的に換喩している機微もつたわってくる。
 
一瞬を擦過する「あの冬の写真」。その内実はしめされていないともいえるが、逆もいえる。葬列を主題とする詩篇の真逆の層に、《病めるときも健やかなるときも》と婚儀の誓文の典型が挿入され、写真は婚礼写真ではないかという予想も生じるのだった。
 
いずれにせよ、「わたし」は、「すすみ」「おとずれない」の無差異、あるいは「葬列」「婚儀」の無差異を「知っている」。それがこの詩篇の中心にある感慨ではないか。無常迅速が相反物や近似物の接着剤となり、せかいでは、とりかたによっては乱暴な溶融が横溢している。
 
「遺書」はこの詩集に頻出することばのひとつだが、その遺書は「芸術品」へときたえあげられるまで「文字」で「かたど」られ、「胸に温め」られる。ひとの死をみてわが死をつくれ、ということだろうか。《ゆく/わたしは葬列をゆく》の最終二行。余情のある呼吸がのこりつづけるが、普遍的な等号世界が成立してしまう。つまり、すべからく死すべき生のあゆみは、歩行者のなべてを葬列者にしているのだと。ところが感慨は、「訪れない」ことが「すすんでゆく」ことと等価になる同一性のほうにあるのではないだろうか。つまり人生全体の彷徨性よりまえに、「その場その場の彷徨の脱臼」が存在していることのほうが意識にのこるのだ。
 
望月遊馬の詩法では、像化できない関係性の変容、その叙述が、そのまま修辞の独創性に直結している。ところがその達成を誇る気配がない。その気配のために狩りだされているのが、語関係の静謐なのだということ、それがこの詩篇解釈からつたわればいいのだが。
 
ぼくが詩集に付箋を入れるのは、ぜんたいの味読を完成させ、それを過去形へと定着するときだ。だから「つきあい」のただなかにある詩集には、白紙の再読を反復させるため、なんのしるしもいれない。それでも清潔さに打たれて付箋を一箇所だけいれてしまった。散文詩「都会的な情緒へ」の最終部分。詩篇「冬の葬列」をも統合するマニフェストだとおもうので、最後に転記打ちしておこう。
 
感情は中和され、わたしたちはわたしたちの実現を生きる。それが尊いものとしてある限りは。
 
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