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2015年05月25日06:39

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北大短歌第三号

 
ぼくが顧問をつとめている北大短歌会の機関誌「北大短歌」の第三号ができました。特集は果敢にも「短歌と性愛」。座談会、論考とも充実していて、ぼくはそのなかへ「性愛的に――、初期の大辻隆弘」という文章を寄稿しました。岡井隆さんの性愛歌を前置きして、タイトルどおり『水廊』『ルーノ』『抱擁韻』と、第三歌集までの大辻隆弘さんの短歌を鑑賞しています。直截な性愛歌から、いわば自己内在的な感覚上の単性生殖歌へと変化していった大辻さんの歌風のエロチシズムをかんがえました。ご一読いただければ。
 
「北大短歌」は一部500円。ご購入窓口は、
hokutan09@gmail.com
になります。
 
昨日は、その北大短歌会の歌会にひさしぶりで出席。兼題「青春」で出詠歌をきそいあいました。ぼくもいたずら心を起こして投詠。「並選」ひとつのさみしい評価でしたが、立教での短歌演習いらい約五年ぶりの作歌だったので、記念に下記しておきます。
 
青春の兼題わらひこもれびはあをいもみぢのなかにもゆれゐる
 
兼題の語を入れる義務があると誤解してつくった歌です。ご覧のように最初の九音以下はひらがな使用で、いっけん読みを迷宮化させる。この齢で「青春」の兼題もなんだかなあ、という慨嘆を前提に、いまの季節、透明さをもってかがやく青紅葉の葉のなかにも、樹下とおなじく木漏れ日がゆれていて、たんじゅんな木漏れ日が青春期の翳りのあらわれとみえるのにたいし、枝の葉にもおのれの木漏れ日の浸潤しているのが、初老期のながめではないかと喩的にとらえました。
 
初感は《青春の兼題おもしこもれびはあをきもみぢのなかにゆれゐる》だったのですが、塚本短歌的な喩的対照をきらい木漏れ日を主語化、「わらひ」を動詞にして一文構造にしたほか、「あをき」を「あをい」と口語化、第五句を一音余りにして完成上の潔癖さを消しました。
 
おもうこと。詩作もそうですが、歌作もぼくのばあい、短歌についての短歌というふうにメタ化せざるをえない。そのときメタ意識上はじめにおとずれるのが「難易度の調整」なのですが、口語短歌の名手たちがいならぶ北大短歌会ではそこのさじ加減をまちがえた。むずかしく歌意をとらえきれないという意見が歌会ではおおかったです。猛省。
 
ちなみに最高点は、三上春海くんの
 
階段の手すりをすべり台にして男子はひとりふたりと消える
 
ぼくは高校の校舎が舞台で、女子生徒が観察者だとおもいました。男子たちの稚気、それに憧憬する女子に「青春」の思いが揺曳する。踊り場を中継して折れ曲がる死角だらけの階段空間がみえるようです。そこを漏刻のようにきえてゆく男子たちの身体がある。
 
石井僚一くんが指摘したように「り」音の間歇により、ひとりふたりときえる時間のながれが強調される。「り」の字面と音そのものに、もともと「すべり感」がある、とぼくも補足しました。これは平明で、かつ、まぎれもない秀歌だとおもいます。
 
それにしても北大短歌会の面々は実作能力と批評能力が均衡よく共存している。なので歌会出席の気持ちが良い。これは北大の院生にはみられない景色かもしれません。
 
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