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2015年05月09日07:09

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下村康臣

 
いちばん再読に向くジャンルが、詩集歌集句集、それと哲学書だろう。小説ではどうしても「物語」を「消費」してしまい、その感覚がのこって再読が億劫になる。細部のおもしろい作家なら数多くいるのだが。
 
詩論の進展をもくろんで、このところ詩集の再読を自分に課している。昨日は架蔵する下村康臣の詩集全冊(7冊中5冊を所持)にとりくんだ。2000年に50代半ばで物故した下村にはどうしても伝記的要素がまつわる。歩行が不自由だった身体の障害、それとススキノでの仕事で生計を立てていた特殊環境、さらには色街のおんなたちを「リサたち、サキたち」と抽象的に呼称し、それらとの性愛を思索した作風。対象と自己それぞれの「交換可能性」をふかくとらえる瞬間に、下村からみられた視界が憂愁をおびる。それが世界そのものの実在につうじている。だから下村詩をよむと、いつもボードレールをおもってしまう。
 
方法論でいうと、下村は自覚的に詩の散文化、あるいは散文の詩化にむかった。「障害者たること」の哲学が、金銭や恋愛の哲学とむすびつく独自の思弁が、天与ともいえるリズム感で躍動し、実際は難解なはずの自己発露、世界認識が、おそろしいスピードで「読めてしまう」。ずいぶんと錯綜しているのだが。
 
経歴的印象に反して、詩の蓄財がもともと下村にはあったようで、同人誌「鰐組」に発表された詩篇にも技術がしっかりしているものが多い。特筆すべきは、みじかい余命を宣告されたのち病室でつづられた最晩年の『室蘭』『リサ、リサたち サキ、サキたち』『跛行するもの』だろう。詩的爆発としかよべない事態が起こっている。この意味では古賀忠昭や山口哲夫の最晩年に印象が似ている。そのように「白鳥の歌」をうたえる生は、たとえ環境がくらくても、ひかりにみちている。
 
ぼくは現在札幌在住なので、下村詩に頻出する地名から一定の感触をえることができる。「札幌詩人」という点で下村は最重要で、入手しにくいその詩集の全貌が北海道の有志で再編されるべきだろう。笠井嗣夫さんなどと交渉もあったのだろうか。笠井さんからなにか聞いた気がする。
 
下村康臣論はいずれ書く。ぼくの好きな江代充−貞久秀紀の系列とはまったくちがう速読可能性、爆発感、未完成感が下村詩にはあって、それゆえに詩論の拡張には必要な才能だからだ。未読のひとに方向感をしめすなら、中尾太一さんや岸田将幸さんのやろうとしている吐露に、見事な先鞭をつけているともいえる。ただし下村詩の進展は単力的で、おふたりのような自意識の痙攣はない。まだまだ再読が足りないが、下村詩の哲学性をそのフレーズからひとつだけ抜き書きしておこう。
 
比喩が剥がされると
暗闇の世界で
動詞が主語になる
(『黄金岬』「黒い袋」)
 
主体性とは主語性なのか動詞性なのか。ドゥルーズ『襞』にいわせれば、主語性を定着したデカルトにたいして、ライプニッツは動詞性を果敢に追求した。
 
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