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2015年05月08日06:21

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近況

 
水分を濾し体液とするのが木なら
その精彩あるゆれは液体的にひかる
そらと地とをつなぐものとして
かつては魚もやどらせていたのだから
葉のしげりのすきに星がみえるのも
うれいをかりたてる異教ではなく
その夜その夜の異数にすぎない
影にあって影のかおをする木だちは
おんなとちがい枯れ枝をもふくむ
そんな分散をまぼろしとながめ
水のとおらない新緑も嗅いで
ひとめいた迅さで年老いてゆく
 
 

 
つれあいとすごしたGWも終わった。札幌の気候はずっとよかったが、あてにしていた千島桜観賞は花期がおわっていて門を閉ざされた。失点をおぎなうべく行った南平岸のラーメン屋が旨かった。つれあいはカンヌ映画祭のまえは資料の打ち込みで忙しく、その他はしごとをするつれあいとともに録画済ドラマをみまくったくらい。録りだめをしていた正月クール『限界集落株式会社』の出来がとりわけ見事だった。
 
このところするどく背に食い込む荷を負った気がしている。ひとつはGW突入直前にしあげた自分の詩集だが、もうひとつは現代詩文庫の『江代充詩集』の存在だ。すでに何度か読みなおしているが、「つかめない」。つかめないのに繙読すると、時空感覚が清澄になる。この江代詩の原理を概念化できなければ、つぎの詩論の構築がおぼつかない。
 
屈折、シフターの無視、想起の自由、静謐、過去の現在化、文法破壊、祈祷・敬虔、謎・曖昧……江代詩においてはそれら混ざらないものが容易に混ざる。字は「そこにあって」、なにも減っていない。けれどもひかりに透かされた像はひかりの親密さと同時に、非親密にゆがんでもいる。それが江代的な聖画だ。ようやくなす了解、その過程を自己吟味すればアフォーダンス的になって、かぎりない記述すら呼び込みそうだ。読み手のことばを詩の外側が吸着するのだが、これほど「それじたい」である構成的な詩も滅多にない。この矛盾をどうしよう。詩集構造をにらみながら一篇一篇を冷徹に玩味するしかないのか。
 
それにしても現代詩文庫にまとめられると、オリジナルの江代詩集が読みたくなってしょうがない。収録選別を確認すると、たとえばぼくのもつ『昇天 貝殻敷』でも素晴らしい詩篇の数多くがばっさり落とされている。ならば未入手の『公孫樹』『みおのお舟』『白V字 セルの小径』でもどうしても原典を確認したい。だれか所持するひとに借りようか。いずれは書肆山田が、かつて辻征夫の詩文庫化にあらがって詩集成を出したように、大冊の『江代充詩集成』を出しそうな気もするのだが。
 
江代充さんの詩は劇薬だとおもう。これほど他の詩作者を色褪せさせる作物もそうそうないのではないか。ぼくもまた自分のしあげた詩集を自分へたもつのに必死だった。それでも困難へと突き進まなければならない。自分をしばりあげるために予告しておこう。江代詩の読解はとりあえずその中期を遡行するかたちで――詩文庫収録の『白V字 セルの小径』『みおのお舟』『昇天 貝殻敷』の順で――これからはじめる。
 
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