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2015年04月12日13:48

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イニャリトゥ、バードマン

【アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督『バードマン』】
 
1ショット映画(カット連接の一切ないとみえるもの)となれば、まず想定するのがヒッチコックの『ロープ』だろう。この映画、ヒッチ作品としては評判がわるかった。理に落ち、知を誇るシニカルな全体の物語がそもそもつまらないのだが、そこにオール1ショットを偽装する撮影も関係している。室内劇であってもシチュエーションが変化するならば、つなぎを隠蔽するのは視界移動で、それでパンや前進移動などが駆使されることになるが、空間の変転のほうに観客の注意が奪われ、主眼たる俳優の物質性が静止的に定着せず、結果、主情化が果たせなかったのだ。つまりヒッチ作品特有のサスペンスがあまりよいかたちでは作動していなかった。
 
さてメキシコから出現して、いまや「世界監督」となったアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥが、天才撮影監督エマニュエル・ルベツキとタッグを組んで、1ショット映画に挑んだ(主演マイケル・キートンが舞台上で自分の頭部に実弾を放つクライマックスの直後、映画じたいを救出するようにうつくしいフィックス中心のショットがフラッシュ連鎖してゆく、ただ一度の例外はある)。ゴールデン・グローブの主演男優賞と脚本賞を獲得した折り紙つきの作品。ここでは1ショット映画の知覚的な可能性が緻密に追求され、映画史にあたらしい驚異が生じている。まず、イニャリトゥの事情からかんがえてみよう。
 
たとえばイニャリトゥの長篇第三作『バベル』。舞台はモロッコ、アメリカ〜メキシコ〜アメリカ、日本と三分される。モロッコでは最初、遊牧をなりわいとする乾燥地帯の一家に描写が定着されるが、やがて砂礫地遠景に異質な、アメリカ人ツアー客を満載した観光バスが闖入してくる。ジャッカル退治にあたえられた銃を一家の息子ふたりが互い違いに試し撃ちするうち、その銃弾がバス内の女性の首に的中する。ケイト・ブランシェット扮するうつくしい女。隣席の夫ブラッド・ピットは異変に仰天し、バスの停止、さらには妻の治療のためバスの進路を変えることを主張する。
 
当初、一撃がテロリストによるものと理解され政治問題までも呼び込んだ結果、モロッコの僻村にバスが辿りついてもケイトの救済がままならない(なにしろやってきたのは獣医だ)。ふと気づく。イニャリトゥのえがいているのは停滞なのだ。しかも逆説的なことにそれは「流暢に」しるされる。つまり相互負荷にきしむ撮影により、映画から通常の表情をうばう客気がかんじられる。
 
アメリカの場面ではカリフォルニアの一家が主軸になる。幼い兄妹がいて、主人の留守をメキシコ人家政婦が預かっている。彼女は郷里のメキシコで催される息子の結婚式への出席に気もそぞろだ。そこに電話がかかる。予定の期日に帰れなくなった。けれど結婚式には行ってくれ。この電話では切り返しがない。つまりかけてきている相手がわからない。とうぜんブラッド・ピットだという予想が立って、まずはふたつに分断された場面がつながる予感が生じる。
 
さてその後のメキシコ人家政婦。代わりのベビーシッターがみつからず、やむなくふたりの子女を連れてメキシコでの陽気な結婚式に出席、さんざん愉しんだのちの帰路、メキシコ/アメリカ国境で監視員と運転する甥のあいだに偶発的な悶着が起こり、果ては子女ふたりと砂漠で野営、しかも助けをもとめに場所を移動した結果、のこされた子女ふたりが「砂漠の迷宮」のなかで迷子になる散々な展開をしるす。ここでも主眼的に捉えられようとしているのが停滞で、しかもそれはやはり流暢に描写されるのだ。
 
日本の場面で中心になるのが父娘に扮する役所広司と菊地凛子。菊地には聾唖者というハンディキャップと「日本ギャル」、これら二重の属性があたえられる。承認願望と処女喪失使命にとらわれた彼女は挑発目的の浮遊を脱論理的にくりかえし、そこからは画面変転に無限彷徨のいたましさがにじんでくる。
 
ここでは彷徨という移動性ぜんたいが停滞に繰り込まれる(国辱的な細部はあるが、日本が停滞にあえいでいるという見切り自体はまちがっていない)。それは、たとえばイニャリトゥの長篇第四作『ビューティフル』、癌の罹患で余命二か月を宣告されたメキシコからの犯罪属性のたかい移民ハビエル・ハルデムがバルセロナを舞台になす彷徨の夢幻性と共通点がある。『ビューティフル』で日本の場面が召喚される理由はケイトを攻撃した銃の元来の登録者が役所だったためだが、してみると『バベル』は世界大の停滞を連接する作家的野望に貫かれた傑作だった。
 
以前は「撮影の映画」「演出の映画」という二分法があった。たとえば前者の代表をヒッチコックやラング、後者の代表を戦前フランス映画やロッセリーニとすればいいのだろうか。いずれにせよ演劇を映画として把捉する際の俳優演出に心血をそそぐ系譜が演出の映画だとして、そうした「俳優演出の剔出」はオーソン・ウェルズや仏ヌーヴェルヴァーグあたりから意味をなさないものになってくる。撮影そのものに演出が内包された結果、両者が溶融したのだ。「どう撮るか」、そのことが俳優を定位する。
 
この問題に世界映画の現状で最もふかくかかわる撮影監督のひとりが、驚異的な技術をもつエマニュエル・ルベツキだろう。たとえばテレンス・マリックの『トゥ・ザ・ワンダー』では常套にちかいラヴストーリーを、手持ちカメラで流麗にうごく視界がこまかく連接し、しかも俳優の内部にまで分け入るように内/外の境界をとりくずして、結果、カメラのうごきとカットのつなぎが驚異的に情動化していった。
 
不明性まで分泌するカット連鎖の結晶性だけではない。長回しとみえるものもある。アルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』では、冒頭、鉛直軸のない宇宙空間での長回しのなかで、俳優身体の上下が複雑に変転し、そこから無限性をもつ「奥行」の恐怖が完璧に定着された。俳優をワイアーで吊り、しかもそれをモーションコントロールカメラのうごきで非人間的・空間関数的に定位し、その背後に位相のさだかでない宇宙空間を合成することでなしえた快挙だった。
 
このような前段からイニャリトゥ/ルベツキによる『バードマン』にこめられた1ショット映画の領域更新性の意義を算段することができる。あらかじめ整理しておくと、それらは「持続驚異」「不可視性の温存」「掘削」「濾過」「反転」などにまとめられるだろう。
 
たとえばのちにマイケル・キートンが演じているとわかるが、冒頭は麻原彰晃がなしたという伝説のように、胡坐すがたで空中浮遊している初老の男の、なにか物質的な奇妙さをおぼえさせる背面裸身の描写からはじまる。舞台はこれまたのちにわかるようにブロードウェイの劇場の楽屋。カメラが一旦パンしたのち、いつの間にかマイケルはゆかに立ち、あるいている。つまりパンのつくりあげた別の時間のなかに、マイケルが浮遊状態からゆかに着地する詳細が秘匿されたのだ。特撮の達成感を誇りもせずショットがずっと持続している。それが最初の驚異だった。この映画の持続は、画面生成の持続であって、俳優存在の持続ではなく、なにかの不可視性を代償に偽装されたものだという理解がゆるやかに生じてくる。
 
イニャリトゥ/ルベツキは単純な持続に、「持続驚異」をもちこんでくる。「リーガン」という役名をあたえられたマイケル演じる不機嫌な初老男は、超能力をつかい手近のものを空中に浮かせて壁にぶつける。どうやって撮っているのか。特別なショットにあるべき「準備」が、画面の持続により痕跡を抹消されていて、ただただ驚く。あるいは手持ちもしくはステディカムのカメラが複雑なうごきをかたどるうち、楽屋にとうぜんある鏡が、撮影者を映さない驚異が連続する。
 
冒頭だけの遊びかとおもっていると、以後、カメラはキートンとともに楽屋を出て、プレビューのための舞台へ移動、そのながれの一切でもカットが割られていないようにみえる確認が起こる。そうして「持続驚異」により、空間が荒々しく奥行や進行域にむけて無限の「掘削」をおこなっている事態が判明してくる。
 
『バードマン』はジャンルでいえば「自意識=アルターエゴ」と闘う俳優をめぐるブラック・ファンタジー・コメディということになるだろうが、計算された撮影上の「持続驚異」「掘削」は理知よりもまえに、荒々しさをつたえてくる。これがこれまでの作品で貧困や社会矛盾を荒々しく把捉していったイニャリトゥの呼吸とおなじで、それをルベツキの撮影革新主義が下支えしているのだ。
 
イニャリトゥ映画の特有性は中心性のゆらぐ群像劇を志向する点にあるが、一所にあつめられた多様なパートの演劇人たちが移動中の画面を擦過するように出現、しかもそこで発声される科白の質まで、現実のものと、レイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を潤色した舞台劇中の科白との混在をみる。このとき、せわしない移動視界によって「定着」を阻まれている画面存在の不安が、観客を混乱におとしいれる。
 
なお、この作品の音楽はすべてドラミングによる。速度感や焦燥感を駆り立ててゆく効果があるのだが、破格の劇伴音楽といえるだろう。ドラムスコアはジャズ畑のアントニオ・サンチェスによるが、当人なのかどうか、ながれているドラムスコアをそのまま叩くドラマーが、カメラの前進移動が「わき見」したとき、通路にひらく部屋にそのまま出現したのには驚いた。
 
さてもともと映画は視覚偏重的だが、それはとくに人間の物質性をえぐりとるためのものだ。ところが「持続驚異」という点で視覚偏重性をもちながら『バードマン』は俳優の固有性を時間軸のなかに分散させてゆく。画面の移動持続だけが最初の視覚対象になるといってもいい。そうなるとやりとりされている科白さえ把握できなくなるのだ。ニーノ・ロータの音楽があまりにも良いときにフェリーニ映画の字幕が読めなくなるのと、事態は似ている。映画では度を越した情報の多重性はときに嚥下できない。しかも科白はみな無媒介的なのだった。
 
むろん監督が過激なイニャリトゥでも、観客の心理誘導・感覚誘導・理解誘導を旨とするハリウッド映画であることに変わりはない。観客に驚異と混乱をあたえるだけでは商業作品として成立しないということだ。それで次段階に出現してくるのが「濾過」。たとえば設定となっているカーヴァー原作の舞台劇(そこでは「愛される」資格が問題になっている)と、いま現実に進展している映画、それらの入れ子構造について考察する余裕を映像テンポ上あたえられていないと気づくと、観客は間歇的に打ち出されてくる実質的な情報をつないで、あとは割愛する自己防御をおこなうようになる。これが「濾過」だ。
 
これは観客側の自発的な営為のようにみえて、内実は映画そのものの狡知が観客に仕掛けてくるものだ。それで観客はドリルの掘削でおがくずが飛び散るような画面の流動から、驚異だけを身体に刻みこみ、しかも画面流動により自らの情動を倍加させつつ、映画そのものを選択的にではあれ理解するようになってゆく。この点に齟齬のないところが、ハリウッド的心理学のすごさだ。
 
リーガン=マイケル・キートンを主軸に整理してみよう。リーガンは往年、(架空の映画)「バードマン」で当たりをとったハリウッド俳優だった。ところがイメージの定着をきらい、シリーズ四作目から降板する。まるでティム・バートンの『バットマン』で一世を風靡しながら、最初の二作だけでそこから離脱した、演じるマイケルそのひとのような設定なのだった。
 
リーガンは以後、俳優として着実なキャリアを築けない。それでカーヴァーの小説を自ら舞台化、その演出兼主演者として起死回生の面持でブロードウェイに乗り込んだのだった。ところがハリウッド俳優のブロードウェイ進出は能天気な自己顕示として玄人筋には歓迎されない。このことはリーガンにも自覚されていて、その不安がリーガンにアルターエゴ(最初は〔内心の〕「声」のみの存在に終始している)を呼びだす契機となっている。
 
プレビュー舞台が順調なら良かった。その最中にリーガンの共演者が照明落下事故で重傷を負う。急遽、伝手があって舞い込んだ代役が、エドワード・ノートン扮するマイク。記憶力のみならず、度を越したリアリズムで役になりきる気迫、存在感に定評があるが、性格は奇矯、しかも自己アピールのためならばマスコミへの虚言も辞さない彼は、最初のプレビュー段階から科白変更や、実際のバーボンの水への差し替えなどで、演出家リーガンと悶着を起こす。これらでのキートン−ノートンの科白発声と演技の応酬は、スクリューボールコメディに匹敵するくらいの高速で、ハリウッド映画の異様な伝統に映画全体が回帰をおこなっている機微もつたわってくる。
 
徐々に配役の見分けもついてくる。舞台のプロデューサー・ジェイク(ザック・ガリフィナーキス)は当初から舞台の敢行を第一義とする真摯な訴えかけで印象的だが、女優たちも着実に分立してくる。妻シルヴィア(エイミー・ライアン)と離婚したのちの現在のリーガンの恋人(妊娠騒動がある)にして共演者のローラ(アンドレア・ライズブロー)。マイクへの急な代役交渉に成功することでマイクと訳ありとおもわせる(実際にマイクとの性交渉の質がのちのやりとりで判明する)これまた共演者のレズリー(ナオミ・ワッツ)。
 
リーガンとシルヴィアとのあいだの実娘で、ヤク中から復帰、なんとかリーガンが付き人として独り立ちさせようとしているサム(エマ・ストーン)。辛辣な筆致で名を馳せる、どこかニヒリズムの翳りのある、それでいて職業的矜持たっぷりの「ニューヨークタイムス」劇評家タビサ(リンゼイ・ダンカン)。
 
悶着のあったリーガンとマイクが、リーガンの「表で待て」の一言により居場所を劇場まわり=外部=ブロードウェイ街に移すことで、「反転」がはじまる。作品の大部分は実際にあるブロードウェイの劇場内で撮影された由だが、内部的逼塞を、前進移動を中心にしたカメラが縦横無尽に「刺繍」するのにたいし、外部ではいわば単純な往復運動や円環運動が組織され、そこでは刺繍性のないうごきに解放感があたえられる。それでバーを根城に、そのカウンターでほろ酔いのまま劇評をしるす孤独なタビサのすがたが召喚されるほか、やがてはマイケル・キートンのパンツ一丁による抱腹絶倒の劇場外円環運動を呼び出してくる(この作品ではヒッチコック『ロープ』とちがい、俳優の物質性が確実に定着される場面がかならず繰り込まれていて、結果どの俳優にも「見返り」が生じている)。
 
ブロードウェイ劇場内――「内側」が、作劇の世界観を保証する基盤だったはずが、「外側」が召喚されることで「反転」が起こるのだ。この反転が内側の「持続驚異」とは別相の「持続驚異」となって作品にダイナミズムを加算させてくる。このとき、内側と外側の中間地帯のような抒情的な場所があったのも忘れてはならないだろう。
 
リーガンの実娘・サムに扮するエマ・ストーンは、不安を隠す強気な視線がつよい印象をのこす役得なのだが、さすがに社会復帰を目前にしたプレッシャーから、劇場の高所、屋根のつづきにしつらえられた隠れたベランダともいうべき場所(ブロードウェイのメインストリートが俯瞰できる)で、喫煙をしている。その場所が、サムのからだつきに眼をつけ、挑発的な誘惑をするマイクとの、一時的な逢瀬の場所ともなる。これもまた、配役の相関に意外な補助線を付加する「反転」だろう。この場所でのふたりのやりとりから、ブロードウェイの別相がたしかにうかびあがってくる。
 
徐々に判明してくる作品の結構と配役布置につき字数をついやしてしまった。付言しておくと、舞台では大団円は以下の状況となる。俳優名でしるすと、エドワード・ノートンと浮気をしたナオミ・ワッツの浮気現場に、マイケル・キートンが乗り込んでくる。ベッドのなかで気丈にキートンの「愛される資格」を難詰するワッツによって、徐々に自己の欠落に目覚めたコキュ=キートンが、内心の葛藤の末に拳銃自殺するというものだ。
 
ここでは、スタニスラフスキー・システム上の「迫真」が嘲笑的な話題となる。回り舞台だろうか、出をベッドのなかで待機している同衾状態のワッツとノートンの薄暗いなかでのやりとりがあって、役柄上の「迫真」を生きるノートンは、恋人生活では不能なのに、舞台精神に基づき倒錯的にそこで勃起してしまう。プレビューの舞台だが、実際の性交をワッツに迫る逸脱。ワッツは懸命に拒むが、ノートンの股間の異変はプレビューの衆目にさらされる。それを尾籠さのないコメディとして発露させるイニャリトゥ演出の呼吸が見事だ。
 
この「迫真」熱に、舞台俳優コンプレックスをもつキートンが罹患する。結果、最後の場面の頭部自射が実弾となった。血しぶきが共演者はおろか客席の最前列付近まで及ぶ。この「迫真」を辛辣な劇評家リンゼイ・ダンカンが絶賛する「落ち」は、むろん劇評がいかに陋習に縛られているかを皮肉に言い立てる笑いをふくんでいる。
 
画面持続の質につき、さらに整理しなければならない。ヒッチコックの『ロープ』型と、オーソン・ウェルズ『黒い罠』冒頭の長回し型の対立だ。カットのつなぎめがないようにみえる『ロープ』がフィルム一巻ごとの制約をどのように踏破したかというと、俳優の顔アップの瞬間や、扉の開閉などでできる一瞬の暗闇をカットの接合面としたのだ。つなぎのなさは、うごきをつないだフェイクにすぎない。一方、ウェルズ『黒い罠』冒頭は、カメラマンが手持ち、パンのみならず、移動車やクレーンに乗り換えて大規模な一発撮りに挑む起動力の「事件」だった(それをほぼロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』の冒頭長回しが踏襲する)。それていうと、『バードマン』の画面持続はこの両類型の融合というべきだろう。
 
カットをつないでいるのに実際はつないでいないとかんじさせる、扉の開閉にともなう一瞬の暗闇はある。つなぎの作用面となる俳優の顔アップや事物への飛躍もある。ところがそれらはすべて前後の動勢に挟まれ、撮影機会の再発とかんじられないようになっている。観客心理学が活用されているのだ。つまり1シチュエーションの完成とおもえないタイミングに、みえない接合箇所が潜在している。1シチュエーションの呼吸が完了するところ(たとえば楽屋―廊下―舞台など移動にともなう単位の終了)では「そのままに」画面が手持ちですすむ鉄則が堅持されている。いずれにせよ生じている移動過程が長いから、撮影されない外側=舞台裏で、スタッフと俳優が右往左往している気配がつたわってくる。
 
『バードマン』の視覚持続は、たんに「視覚が持続する驚異」なのではなく、「持続のなかにみえなかったものが繰り込まれる驚異」のほうにある。この驚異によって観客の注意が幾度も覚醒を導かれるのだ。この点では、この映画は鑑賞ではなく、驚異にむけての「体験」を先験的に組織する。最たる箇所が、物としてのバードマンの登場場面だった。リーガンの内心の声=アルターエゴはトラブルの続出により、徐々に水位をたかめてくる。「こんな舞台、放棄してしまえ」「おまえのキャリアは好転しない」。作品はそれまで対話する者どうしを伏線として素早いパン往復(俗に「ペンキ塗り」ショットという)で捉えていた。それは単純な画面持続にすぎないが、あるとき小さなパンの一往復で、リーガンの隣に、バードマンが実在化しているトリッキーな展開となる。
 
バードマンのコスチュームはバットマンのヴァリアントと呼ぶべきだが、「鳥」の形象は猛禽類化してその鼻のあたりにきらめいている。それが路上のリーガンの背後を覆うようにとりついて、やがては彼のからだを浮かす。宮崎駿のアニメのように身体浮力が幸福や性的恍惚になるのではなく、恐怖感覚になるのが見逃せない。
 
ところが内部性の反転として、実際にマイケル・キートンが、画面持続のままブロードウェイ上空を飛翔する場面では、CG合成とモーションコントロールが駆使され(『ゼロ・グラビティ』の宇宙空間がブロードウェイ近辺の俯瞰光景に変化した)、解放感を導いてくる。この解放感が偽りだということは作品自体が主張している。当初は劇場ビルの屋上の縁にいるマイケル・キートンを路上通行者の一群が不安げに見上げていた。ところが投身自殺かとおもいきや自由な滑空をはじめるキートンには通行者の誰もが注意を払わない。このあたりで観客も、画面の符牒にしたがって、現れている画面が「現実」か「幻想」かの腑分けを確実におこなえるようなる。キートンの物を浮かして飛ばす超能力も幻想だったのだ。
 
『バードマン』の持続驚異の異常さはほかに幾つもある。ルベツキ撮影の『ゼロ・グラビティ』にもあったが、客観描写が「いつの間にか」カメラが前進移動をかたどるや主観描写に接続している点がまずあって、そこでは「対象」が不連続の連続のなかに不可視化を迎える不穏な一瞬がある。それがまた客観描写に接続もされるのだが、錯覚をほしいままにあやつる感覚心理学が不敵に活用されている。
 
それと、これまで述べた画面持続は、『ロープ』にしても『黒い罠』『ザ・プレイヤー』にしても、画面の持続と時間の持続が一致していた。ところが『バードマン』では画面が持続するままに日付が跳ぶのだ。具体的にどんな操作が起こるかというと、画面が縦軸にティルトし建物の高所を捉える。それが夜の一刻だとすると、やがてそこで微速度撮影によるコマ抜きに調子が変化し、建物からもれる電燈がきえ、夜空が次第に朝のひかりを帯びる。その段になってティルトダウンが仕組まれ、そのときに一日もしくは数日が経過しているという荒業が起こるのだ。画面持続偏重主義と笑うべきではない。長回しの1ショットのなかでそのまま数十年を経過させたアンゲロプロス『旅芸人の記録』へのとおいオマージュが認められるのだから。
 
俳優のうごきを追う前進移動や室内固定場面でのパンが主流となっていた「画面持続」の法則に、ティルトアップ/ダウンという縦軸の往還運動が間歇的に割り込むのには暗喩的な意味があるだろう。外部性の召喚はまず時間跳躍を組織する、というのがひとつ。同時に、それが現状の逼塞を範疇外に置く「祈りの運動」までにおわせるのだ。空間の鉛直軸への注意喚起は(それはエドワード・ノートンとエマ・ストーンの劇場ベランダ部分を舞台にした秘かな逢瀬のシーンにもある)、空間の鉛直軸での運動の帰結が、墜落か昇天にしかならない予感を駆り立ててゆく。
 
まさにそれが最終シーンで実現する。事態はマイケル・キートンのすがたが不在になって起こった。この作品の法則では「不在なものは実在している」ということを繰り返すべきだろうか。キートンはどこへ行ったのか。母親エイミー・ライアンに代わって、部屋にはいった娘役エマ・ストーンが、父親のすがたを不安げにさがす。そのときの視線のさまよい。やがて彼女は、ある方向に父のすがたを見いだして、表情を歓喜でみたす。ここでは視線によって間接的に対象のうごきが逆定位される成瀬巳喜男的な叡智が単純化されている。それまでの呼吸がロベール・ブレッソン『やさしい女』の一瞬に似ていただけに、このラストを見事な映画史的「連接」とよぶべきだろう。
 
ともあれ「独自」なのに、いろいろな既存作品を聯想させる、史的幸福にあふれた作品なのはたしかだ。アルターエゴのテーマと画面進展の過剰さという点では北野武『TAKESHIS’』をおもわせるところもある。アメコミ映画を経験した俳優をあつめた配役上の遊びもあった。これらにより、不安でダイナミックな映画なのに、笑いのあかるいコメディへと全体が昇華したのだとおもう。
 
4月11日、シアター・キノにて鑑賞。なお4月25日にはこの作品の上映イベントとして、夕方の上映後、同劇場でぼくが壇上レクチャーをおこないます。ぜひその節のご来場を。
 
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