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2014年12月20日09:01

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疲労

 
「現代詩手帖」の年鑑号での拙稿の一節にこう書いた。《詩篇はその詩篇に出会う機会性ひとつで自足的に読まれればいい。ところがひとりの詩作者を継続的に読むためには、その詩作者の「変化」こそが読まれなければならない。詩篇内容よりも変化のほうにむしろ価値がある》(43頁)。乱暴さゆえに物議をかもす主張だとおもったのだが、なんの反応ももらっていない。みなさん、納得してくれたのだろうか。
 
ぼくのかんがえでは、「マイナー詩人」はひとつの詩法に収束する。素材がかわっても、いわゆる詩的文体が一定であるばあいをいっている。詩的文体が、「世界を詩的に分節する」方法ならびに外在であるとして、それが一定であるとは詩における世界分節そのものが同型に反復されるしかない不自由をかこつということだ。俳句ならそれでいい。なぜなら俳句は定型の枠組のなかで分節作用そのものが断絶的に伸縮し、それが俳句の俳句性を「ただ」保証するためだ。そもそも俳句はもとから老いにちかい。
 
ところが自由詩では、改行法則、一行字数、聯間空白の有無、リズム、飛躍、さらにむろん文節に意味をのせる叙法そのものが可変的に伸縮する余地がある。そうした伸縮が読者に了解されるありかたは詩篇にたいして一回的であり、一詩集単位でつづけば作者の個性をあとづけもするが、数詩集におよぶと、惰性をおぼえざるをえなくなる。一手法が一詩作者の生涯にわたってゆくなら、それは脳髄エネルギーのよわい「マイナー」の符牒にしかならない。「大詩人」(ということばは好きではないが)のしごとは、詩集ごとの変化をつくりあげる底面積のおおきさによって計測されるだろう。ひとりがひとりであることは詩の刑罰なのだ。たえず多数でなければならない。
 
ただしボブ・ディランが「マイ・バック・ページ」に掲げた理想、「昨日より若く」という「変化」の方向性は実質的ではない。叙法は疲労し、みずからの周囲をさがすことで、変化の空間を容積づけなければならない。これこそが「地上にある」ということだし、加齢に尊厳をあたえることだ。屈折や複雑化は二義的だろう。変化に期待されるのは、まず元も子もない弱体化だし、そのうえに自毒化や「ほぐれ」や「襞」の形成、斑点化、色相変化――すなわち「老体化」にまつわるさまざまな逆価値も刻印されてゆく。それが認識の深化と並行するかぎりで、一見の逆価値が真実=正価値へと反転するのだ。いいかえるなら、認識の深化とは、認識内認識がおのれを剋する内圧により、作品単位での照覧ではなく時間そのものを生成にひらくことなのではないか。この時間は非実質的であって、その非実質性がさらに実質化する。この意味で詩そのものに似る。
 
ぼくは『静思集』中の「秘められた生 7」の一節にこうしるした。《耐忍と記憶がまなざしの人間化まで保証するとすれば、ひとみに宿る重たい愛の正体もわかるし、みるもののなかでもっとも意義のあるのが時間や老いの兆しだとも得心がゆく》。ここでは「まなざし」とむすびつけられたが、「疲労論」は身体とともに時間にかかわる思念を付帯するのが必定だ。そこを「遅延」そのものの価値(時間を蜜のように濃くし、同時に水のように稀薄化するもの)が追跡する。したがって変化は方向の問題ではなく速度の問題であり、「より遅くなる」変化こそが本性的ということになる。松浦寿輝のなにかの本に秀抜な「疲労論」があったとおもうが、研究室にあるので確かめられない。
 
ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』の一節に、以下がある。映画の身体化を考察する導入部分に置かれているものだが、文脈を外して「それじたい」を引こう――《おそらく疲労は最初にして最後の態度である。なぜなら、それは同時に以前と以後を内包するからである》(265頁)。以前が以後に移行するだけでは時間は粘性をもたない。以前と以後、双方にまたがった身体や思念が、時間の拡張力によって亀裂をつくり、それが疲弊の皺を結果する。アンチエイジングが過去と現在を同質化することだとすれば、疲労は過去と現在を別のものとして体内に同在化させ、神聖な距離をつくりあげることといえる。その距離が智慧、変化をうみだす基底、宇宙線の交錯する容積などとなる。疲労や老いにみえるのは生である以上に宇宙であるはずだ。それも奇怪な。変化は思いつきや平板化や淡色化、さらには教訓化と関連づけられていいものではない。奇怪さにより向かってゆくものだけが胸をうつのだ。
 
詩作者の作風変化はそのままに複数性を呼びだすが、生の次元ではたんに複数となるものが、疲労という身体実質的な次元では奇怪さと宇宙をむすびつけるものとなる。連絡、またがり――「以後」から感知できるこうしたものが、「以前」を索引する。いま「以後」といえば「3・11以後」がよくいわれるが、「以前」との分岐点(つまり現在)が無限であるかぎり、もちろん「以後」(つまり現在の別の位相)の種類も無限でなければならないだろう。
 
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