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2014年12月16日08:46

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〆切

 
〆切のまったくない純白な元旦など、なかなか来ないものだ。今度来る元旦も、またも依頼された原稿がこころをかすめる不安定をかかえることになってしまった。
 
まずは昨日。学部授業のまえTAさんの授業準備を待っていると、北大短歌会の気鋭女子たちに囲まれてしまう。じつは「北大短歌」第三号への寄稿を二週間ほどまえにメールで依頼されていて、その返答をスルーしていたのだった。依頼は「性愛をえがいた短歌」考察。岡井隆さんのものや加藤治郎さんなどニューウェイヴ短歌については以前に分析したことがあって、あたらしい素材がほしい。ただし、その渉猟が面倒だ、とおもっているうちに、返答の義務そのものを失念していたのだった。
 
さすがに気鋭の彼女たちは粘るし、押しがつよい。結果、特集のために「北大短歌」がつくる性愛短歌のアンソロジーを事前メールしてもらい、それを素材に評論を書くことになった。これでここ数年の口語短歌の性愛テーマに向かいあえる。そういうふうに、書くことに愉しみを設定しないと、なかなか執筆に踏み切れない。更年期障害かもしれない。
 
性愛はみじかい俳句では馴染まない。詩ではながさをもつために淫猥になる。それで井坂洋子さんのような換喩型が理想となる。小説で性愛が導入されれば、その部分がひかりの奔流となるのが望ましい。では短歌はどうか。短歌だけが性愛と「ちいさな音楽」をつつましく拮抗させることができるのではないか。性愛を音楽とかんじたい望みがまずあって、そのうえで情や身体哲学が顕れてくる二段構えがうつくしい。そういう条件にふさわしいのが短歌の長さだとおもう。
 
これは〆切が二月末日だし、字数も3000字なので、よくかんがえれば、さほどの重圧でもないな。
 
思潮社の高木さんからは『北川透現代詩論集成』にちなむ文章をメールでもとめられてしまう。北川さんという重量級の思索者については、以前は詩論のスタンダードの最初の設定線だとよくぼくは周囲に語っていたが、自分で詩論集を出してみると、詩論を創造的に切り開いた先達だという畏怖がたかまる。設定線が凛としたたかみにあるのだ。ほとんどの北川さんの単行本を読んでいるが、送っていただいている『集成』にはまだ手がつけられないでいた。それを読む契機となるし、ぼくのように周縁から出てきた者が詩のフィールドの真芯にふれることは、ぼく以外の周縁者をも救抜することになるのだから、こういう直球の原稿依頼は「倫理的にも」受けなければならない。これが一月七日〆の四千字。だから元旦にも、執筆準備がなされているだろう。高木さんの原稿依頼は、あきらかに人泣かせだ。
 
それよりもさらにいま問題なのは、講座機関誌「層」のための書下ろし論文だ。クリスマスぐらいまでに註をあわせて60枚くらいを書かなければならない。じつは今年屈指の熊切和嘉監督『私の男』、とりわけそこにとらえられた二階堂ふみの身体(顔)と光景の交錯について精緻な考察をめぐらせたいのだが、学術論文にもとめられる参照文献からの裏打ちがなかなかままならないのだ。とりあえずカットのつなぎに、フラッシュバック、フラッシュフォワードがゆらめいたり、サウンドブリッジが多用されたりする作品なのだから、ドゥルーズ提唱の「時間イメージ」をぶつけるしかないな、とおもい、『シネマ』1&2を再読するうちさらに暗礁にのりあげてしまった。
 
『シネマ』1での「運動イメージ」ならドゥルーズは端的に定義しているし、SAS‘にしてもASA’にしても運動とアフォーダンスの関係として別次元にも翻訳できる。ところが時間イメージについては、再読したかぎり、錯綜している文脈に不意に登場し、その定義がなかなかむずかしいのだ。端的な文言はない。
 
これはネオレアリスモの考察で顕れる。フラッシュバックの考察でも再導入される。ただし運動イメージが付帯的に時間イメージをつくり、時間イメージが運動イメージを内包している、といったドゥルーズの口吻からは、このふたつのイメージが相補的で、単独定義がかなわないのではないかという疑念さえもたげさせる。そのうえで運動イメージと時間イメージが相互嵌入して、そこに結晶イメージが成立するなどと書かれると、結晶イメージもまた定義不能性にゆれだすことになる。
 
映画研究者がドゥルーズを自己権威化のために援用することはままあるが、作家論の部分を照応させるだけで、時間イメージや結晶イメージについてのドゥルーズの思索を、そのまま自己の考察にむけて批判的に適用する例をあまりみないとかんじていた。けれどそれはドゥルーズ的思考に内在する構造のゆえなのではないか。
 
もともと時間イメージをつづりだした段階のドゥルーズは、抽象的な思念がさらに抽象的思念を分岐させてゆくいわば爆発状態にあったとおもう。簡易化できたはずの諸概念が、速度化し複合化することでキメラをなすとして、このときの諸概念の「うつくしさ」といったものに、むしろみずから捕囚されていった危うさがある。だから俳優の身体「運動」を捨象したのちにあらわれる映画の生地=時間に眼を向けながら(小津)、それがなぜか時間を加工する手さばきへと飛び火して、結局は、映画の「フレーム」のもつふたつの本質、ショットとモンタージュ単位のなかにもともとあった「時間」(『シネマ』1の前提)へと考察が再帰して、「運動」から「時間」を分離できていないのではないか。あるいは分離不能をいうなら、もともと二元化を立ち上げる必要もない。混乱のあきらかな徴候だ。
 
たとえばバスター・キートンとロッセリーニの差異を映画原理的に分析することに、なにか積極的な意味があるともおもえない。ゴダール的な定言命題のほうがむしろ有効だ。その文脈では「キートンはキートンである」「ロッセリーニはロッセリーニである」と断言がなされ、映画という以外に共通項をもたない表現のふたつの質に、思弁的な架橋など企てられないだろう。こうした態度こそが、じつはこのふたつの表現の質にある、受難身体の共苦機能への接近をかえってうながす。自己展開的な(それでも圧倒的な)ドゥルーズの論考にみえないのは、映画的な被造物がそのまま創造結果となる、確定的な条件といったものではないか(むろん創造原理ならふんだんにある)。『私の男』の二階堂ふみも、ある一瞬はキートンであり、ある一瞬はエドモンド・メシュケだが、その二重性を実現する身体と外界(作劇もふくむ)の関係が、ドゥルーズの所説から抽出できるか、これが論執筆にあたっての目標となる。再読したときの付箋箇所にチェックを入れなければ。
 
じつは書こうとしているものでは、『シネマ』1&2を遮二無二援用することで、その援用材料じたいの有効性を計測する裏筋までもたそうとしていた。これが困難だ。さらに昨日は呑み屋で博士課程の趙くんと「ドゥルーズ〔の導入〕は具体性のレベルでじつは困難だ」という話をしていた。
 
それにしても熊切監督は『私の男』のみならず、北海道を舞台にした他の二作『空の穴』『海炭市叙景』もめざましい傑作だ。『私の男』には映像と運動と時間創造の「法則」が明瞭に構造化されている。身体と外景の類似性など解読もやりやすい。『空の穴』には茫漠さと対象消失の不安が、いわば寸止めのカッティングのなかに抒情的に息づいている。そのなかでたとえば建物の屋根や安ドライブイン前の長椅子が素晴らしい。
 
では『海炭市』はどうか。そこではオムニバス(各話はすこしのディテールでうすく連絡する)そのものの時間性があるほかは、すべての対象捕捉とドラマ形成が、設定された外界との関連において「適切」なだけだという法則しかみいだせない。ところがその適切さが舞台となる函館の悲哀を完璧にたちあげる。『そこのみにて光輝く』ではできなかったことだ。つまり作家論の起動できない柔軟性こそが、「熊切印」だという逆説があるのだ。してみると、書こうとしている論文は参照系が困難なだけではなく、素材性そのものも対象化がむずかしい、ということになる。さてクリスマスまでに書けるだろうか。
 
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