138 そうだどこでもない場所などいつでもたがいを遠見すればあいだにできるなかごろにはたとえば裸木をおきながくすくないはしごもたてかけようかないろのくやみがのぼれるように
137 いずれの日に冥府へ移されても簞笥は簞笥のままであるのかつかれきったうすぎぬをまといおのれを透かしてはいないか
136 疾くちりはてたという謂がなじまずゆっくり去ったとおぼえかえるとちかづいてくるような去りわざすら聯想がむかうほうの林からあって百もひとしれず十以下になったのか
135 ひそかにひとを希望にするひとは布に織られて布をも希望にするやわらかくきぬずれするしたぎはただ音のよさからのみ履かれ繊維のほうが再帰よりすぐれるほぐれだすそのみずからによって
134 その顔のそのかけがえのなさが恩寵と同時にぜつぼうなのだいっときは天漢のろうぜきと似てかざされた手でかくされてゆく
133 あなたの左があなたの右とゆくことであるきがしずかにきらきらしているどうしてことの左右が気がかりなのかまふたつはけしてそれぞれではなくまなかの半分性のみあらわにするためだそれが宥められ、事後のゆめがうつる
【雑感2018.08.12】 ・蛸がその足の何本までを食べても蛸といわれるかが認識の脅威だろう。じっさい俳句は「自分の足を食べていて」、その状態に詩は憧れなければならない。結果、俳句が現今の詩に先んじて獲得したものは――詩がまるはだかの骨格で組織さ
132 なみだ塩をかすみ打ち野菜を泣かすすくなくしぼりややうつむいてめぐるもののはてを口へみたすときえるあらかたがきえにあらわれる
131 ながれうごけば生きているとみえるとうめいな水は底知れぬ仮象だがあたえるためにはふところをやぶりおのれとして汲むのだ、星の井戸では
130 からだに寝台をひそめているけだものはかたい屋根のうえでもみちてねむれるみずからのわずかにみずからをのせしずかな葦舟が銀漢にとどまりつづける
129 いつのまにか弟子となったユダはいつのまにかのあいまいを生きいわしぐもにさえ悪衣をみあげた起こされてみたらあれ野がかがみでおのれがうまく映らなかっただけくぎりないことのにぶいひろがりは説法のゆめやくるしさと背理した
128 みわたすことをしたからなのだろうか肩にみだれる夜風はとてもながい丈をもつ身も末ひろになっているのだそこまではわたしというへだてすらいつかゆくひとのむこうとなってここからの巾がひとつ無魂をつかむ
127 わすれてくれるからへびやむかでをこのむ這いゆくながさがすくなさにもみえて苦よもぎの世ではおぼえている途中だけがほそくきえあうたがいのすがたとなる
125 レヴィナス、つたうべきかんがえをおびふかいみどりの裏でかくれかまえるとおなじうする円を似た辞がおくまりすきまがおなじをことならせないようくすりらしく配剤されたくらい故意だとみずから知って呑みこみをおのれした
124 ほそいもののいくつかがとおくにあってうすこがねにかがやくから時は疲れるあれらははしご、すくなさをあらわしてひかりが多すぎるほど使われる過ちをじんがいの通過になおもおきかえた廉でヤコブのすえのまなこみな冥くくぼみあかされぬ詩がゆめみの
123 やがてばらばらにわかれゆくときのひとらのうごきのかがやきとはなにかそれはかつてあったアゴラでおこり四囲のひろがりが幾輪にもなってまらるめのながめで水紋がおさまるはちすひとつのめぐりだとかたられた
121 あれこれ歩行補助具をゆめみるようになりどの地上がとおくうつされたそらなのか足なえたちがたくまれた錫のなにかをおし錫鳴きして円屋根を二重のさまでわたるなつとひとのそこにさかさのけはいあってめまいのなかをつかれがきらきらあるく
120 こどもが球形をかんじるはじめがちかづく母親のめだまだろうがみずからみちるあじさい玉ならばあおい盲目のあふれなのだったすべて剪られ転がるさまにであいみるばちあたりで痴れ者になりつつ棄教のあたらしさをもふるえ聴く
119 どこをさまよっても丈ひくい草の花ばかり木の花のない北十八条あたりはさびしいらいらっくを誇る心はさるすべりをうえず紫微とよばれるべきひろがりがかなしむ戸口からなつかしい官女のあらわれぬ朝に路上の長椅子は草花のふたりをひきこみ椅子のさま
118 夕日負いおのが影まですくいつつくらうことなどできたのちはゆくしかないこの黄泉のふくろへゆうがおの坂もみたしいれた旅装にてとおす、とおのれ恃んで
117 だれかと家電話で語らっていたむかしは遠浅へおきさられた気がしたものだ凪ぎつづきの責めでふいにしろくなりひとを不如意棒のまま堰くしかなかった
116 ひとのからだなど分割できないができそうになるもとに曲線がからみかたちの内省とみえてうつくしいそれはあなたではなくたとえば時でとおさとおもえるへだてもあっておわらぬなかばはつながりにきえる
115 せなかだけみてそのものとわかるほどこべつはふぜいにふかくしみこんで場でみわけるやなぎとひとはちがうがいちど僧帽筋の語をおもいだすとだれでもない帽子のせなかもうごいて前をさりゆくふわふわが天金となる
今日、永田耕衣のことをちょっと書いて、ふとおもいだしたのが、さきごろTV放映され録画でみた西谷弘監督の映画『昼顔』。クライマックス、北野先生(斎藤工)に死なれ(実際はまだ籍を抜けなかった嫉妬深い妻=伊藤歩に殺された恰好)、絶望のきわみにあ
こないだの道新の土曜夕刊、ぼくの連載コラムが載った。四方田犬彦さんが中心になって編んだ筑摩書房の「1968」シリーズ、1『文化』、2『文学』、3『漫画』の全巻終結を見据えた、紹介と論評。おおまかに1はジャンル別に論者が解説をおこなう体裁だが、
114 ピンクにぬられた家屋から数歩出たときぬまのようにしめった声の複数がぼくらだ音の知恵はみしらぬ生にあふれているとジェイム・ロビーがつれそってかたるので弱気と謙抑によりむくわれぬこともあるくびられゆくうたがあわれだといらえした
113 レダが白鳥につつまれたときはなにが侵入しているのかわからずしろとやわらかさと厭な臭いであたまが身とわかれるようおぼえかえって増殖をよろこんだがそのいじましさこそめでられた