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2017年02月27日13:31

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『沈黙』について(遠藤周作、およびマーティン・スコセッシについて)その2

 さてニホンの場合はどうであったのか。
 鎖国、および禁教の理由は、公けには、宣教師が大名たちの一夫多妻に反対したから、ということになっている。
 しかしながら、今では半ば公然と知られているように、カトリック教会の内実は、それほどシンプルなものではなかった。
 布教の最前線に位置する修道士たちの誠意を疑うことはできない。
 しかしカトリック教会には政治がもちろんからみついてきている。
 当時、世界でもっともカトリック修道士が気ままに過ごせたのはフィリピンであった。
 なぜなら本国からあまりにも遠くて、統制が及びにくかったからである。

 メキシコの場合では、スペイン人は、「メキシコ」人どうしを戦わせるように努めた。
 ニホンでも当時は戦国時代、宣教師たちは武将たちをいかに戦わせるかを考えていた。
 しかも鎖国が決まったのち、フィリピンのドミニコ会は、ニホンを「征伐」するためにスペイン本国に、軍の派遣を依頼していて、古文書館にはそんな文書も残っている。
 まあ、そんなところ。

 しかしながら、遠藤周作のいわんとしていたことは、そんな世界史云々ではなく、こころの真実である。
 「沈黙」のなかのキチジローはとりわけ、信仰の本質をあらわにするためのトリックスターといってもいいような存在ではないかと思う。
 とにかく、こころの真実について話すことはむずかしい。いくらでも主観的な話として展開していくことがありえる。敬して近寄らぬわたしであるか。
(そういう小うるさいわたしは、はたして救われるのか?)
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