(1) これほど凄みのある読み物に出会うのはひさしぶりで、歓喜。
その一方で、では凄みのない読み物というのは意味がないのか、などと茶々をいれたくなるのがわたしのわるい癖。凄みというのはいったい欠かせないものなのだろうか、と自縛スパイラルに陥っていきそうで不気味。
(2) この作品の凄みとは各個人の細部が丹念に描かれ、どの個人を選んでもそこをひとつの焦点としてこの物語空間を再構築することが可能だと思わせるところにありそうだ。といっても、よりこのましいポリフォニーに至るためには、各個人の描写がこれだけ的確であるのではなく、冗長といったほうがいいまでの世界にたどりつかなくてはならないだろうが。ということで、これだけ各個人が生きた描き方をされると、敵と味方という二分法が崩れてきて、すべてはかりそめの役柄にすぎないのだ、という印象をうけてしまう。
(3)もう40年ほどまえのことになると、明日にでも北海道にソ連が攻めてくるという緊張感が漂っていた。この作品が綴られたのはもう10年以上もまえのこと、しかしながら北の某国の脅威は如実に存在し続ける。事情通にいわせると、すべては某国が米国と対等に交渉するための小道具にすぎない、ということになる。それでも、ニホンへの脅威はなおも存在する。
わたしたちニホン人は侵入、占領されるとそれこそ世界の終わりのような気分に陥る。ニホンは占領という憂き目にあわなかった数少ない国のひとつだから、免疫がない。いや、厳密にいうと第二次大戦後にニホンは占領されていた。だがそれは、かぎりなく解放にちかい占領であった。世界の多くの地域、ヨーロッパを含めて占領、被占領はずいぶんと例がある。占領されたとき、占領者と被占領者とのあいだにどんな関係が打ち立てられるか。歴史はさまざまな例を提出してくれるはずである。そしてここで著者が描いた九州と某国の関係というのはただ興味深いだけではなく、従来のニホン文学(文学だけではないと思うが)がタブーとされてきた、被占領期の社会を描き、とりわけ、そのとき文化はどうなるのか、というテーマが、実質的には描かれてはいないものの、わたしたちはそれを想像しなくてはならない。
(4)幸か不幸か、この作品では某国による占領は中断される。それが継続した場合、ニホンのなにが変わってなにが変わらないか、わたしたちはそんなことを突きつけられているような気がする。
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