読み終わることと読み込むこととは、もちろん異なっている。
この作品を読み終えてはや一ヶ月以上もたつが、どう話したらいいのかよくわからない。
著者はドキュメンタリー映画作家であるから、映像の意味にこだわる。
わたしたちにとっての映像、とりわけニュース性のある映像というものは、湾岸戦争を境にしておおきく変貌したとよくいわれる。
幸か不幸か、そのころ、わたしはTVへのアクセスが絶えていたので、具体的には触れることができそうもない。
しかしとにかく、(特殊な)映像が一般化するにつれて映像は意味を喪っていく。
映像は「消費しやすい情報へとパッケージ加工される」。
映像は氾濫する、しかし想像力を喚起しない。
わたしたちが感じるべき葛藤は麻痺していく。
わたしは個人的にはTVからは縁遠く、映画のほうを好むのでまだ映像への執着にはこだわっているつもりだが、あるいはそれもいまでは相対的な問題でしかないかもしれない。
沖縄戦はなぜあれほどまで悲惨であったのか。
ニホンは明治以来、海外での戦い(攻め込むこと)を旨としてきた。
しかしひとたび国内で戦うことになると(つまり沖縄でということ)、その戦略を習うことがなかったということが露呈してしまった。
敵に捕獲される住民は、軍にとっては潜在的なスパイと同格とみなされる。
したがって住民を保護するよりも、住民を潜在的な敵とおなじように見なしてしまうという事態に立ち入ったのである。
著者はもしかすると、すごく頭がいいひとではないかもしれない。
しかし、自分をどこに置くか、どこから見るかによって、自分の見方を練り上げていったひとのようである。
意味深い雑文集で、没原稿も含まれている。
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