●「漆花(しっか)ひとつ」 澤田瞳子著 講談社 22年版 1650円
本書には、平安時代末期の5つの話が収録されている。全体的には、平清盛の父・忠盛の時代から白河院に子飼いとして育て上げられた事情、清盛が上皇と天皇の双方から重んじられ出世の階(きざはし)を駆け上がっていくも、武士の本分を決して忘れていないことが描かれていく。
第1話「漆花ひとつ」では、あまりの乱行を咎められた源義親(東国武士の棟梁・源義家の嫡男)を、白河院の命令で平正盛(清盛の祖父)が討ち取ったのだが、その22年後、「我こそが義親なり」と2人の義親が京で名乗り出た話。
この事態は、忠盛(清盛の父)にとっては父の功績を汚すものであったがジッと我慢をしている。やがて2人は互いに争いあい、1人は「自分は偽物だ」と命乞いをするが討ち取られてしまう。残ったもう1人は、忠盛が武士団を率いて殺してしまう(鳥羽院の命令?)という話。
この中で、なぜ白河院が在京の弱小武士に過ぎなかった平氏を自分の子飼いに育て上げようとしたかの理由として、悪僧(僧兵)の強訴に対抗するために始めたことと、その武力によって自分の権力を盤石なものにするためだったことがわかった。
ところが白河院が亡くなり、次の権力者が鳥羽院となった。上っ方の朝恩だけを頼りに生きなければならぬ武士にとって、この代替わりはまさに薄氷を踏むが如き日々だったのだ。ある武士が、「我らもののふは上っ方にお仕えし、その意のままに動くのが勤め、少しでも御主の機嫌を損ねれば、それこそ義親どのの如く、いつ打ち果たされるか知れたものではない」と話し、当時の武士の立ち位置を描いてみせている。
主(あるじ)の意のままに動く犬のような存在であった武士の立場を、清盛が上皇・天皇の間をうまく立ち回りながら、権力者でも「意のまま」にできないほど強くしていったことを、本書では様々な事件を通じながら描いている。平安末期の武士の台頭の姿が、その哀しみ(犬のように扱われて)と共に描いた小説でありました。
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