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2023年01月04日15:57

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読書紹介2256●「星落ちて、なお」

●「星落ちて、なお」 澤田瞳子著 文芸春秋 21年版 1700円
 本書の主人公は、河鍋暁斎の娘・とよである。「星」とは暁斎のことで、「落ちて」とは死んだ後のこと。それでもなお、娘であるとよは暁斎の絵の軛(くびき)から逃れられない、という物語。
 河鍋暁斎のことを知ったのは、東大本郷の正門近くにあるジョサイア・コンドルの銅像からである。コンドルは明治政府の招聘を受け英国から日本に来たお抱え建築家で、東大で教鞭をとった。そのコンドルの日本での生活を小説にしたのが「暁英ーー贋説・鹿鳴館」(北森鴻著)である。この本で、コンドルが暁斎の弟子となり、「暁英」の名を貰ったことを知ったのだ。
 さて暁斎のことである。暁斎は最初、錦絵を得意とする歌川国芳を師とし、その後、写生を重んじる狩野派で厳しい修業を積んだ。それから、やまと絵から漢画、墨画まで様々な画風を自在に操った。風俗画に狂画、動物画・・・挙句に版画から引幕までこなす暁斎のもとには、毎日ひっきりなしに絵の依頼が持ち込まれ、それは死の直前まで続いたのだ。弟子は200名超を擁し、戯作者や役者との交流も多かったのだ。
 とよは、5歳の時に初めて鳩の絵を暁斎から与えられ、それを写すよう言われる。とよが、子から弟子になった瞬間である。暁斎が描いた鳩の絵を貰った時、とよは胸をときめかし、悦びに震えたのだ。結局、5人近くいた子のなかで暁斎の弟子になったのはとよと長男の周三郎だけであった。
 かろうじて絵という軛によってつながれているだけで、畢竟、河鍋の家の者は互いに親子でも兄妹でもなかった。暁斎の家とは画鬼の棲家で、絵を通じてしかつながることができなかった。暁斎は周三郎の母(女房)が死んだ時も、死に顔を描くのに夢中で葬儀は人任せであった。火事あれば出かけ、その様子を描くのに夢中になる奇行の人だった。
 暁斎を継がんとした周三郎やとよの絵は、暁斎の真髄である写生(狩野派)から離れることはなかった。暁斎は、写生を尊ぶ狩野派の技法に桁外れの想像力を混ぜ合わせ、更にやまと絵や浮世絵の技法すら貪欲に取り入れて、己の画風を築いた。しかしとよや周三郎には、その真似は生涯できなかった。暁斎は、高い壁となって聳えていたのだ。
 そして明治を半ばになると、狩野派の絵は「古い」として顧みられなくなり、暁斎の弟子たちも師の軛から逃れ、世人のもてはやす絵に迎合していった。しかし世間が暁斎を謗っているとあっては、娘であるとよまでが父の絵を捨てられはしなかったのだ。
 ということで、売れない絵(狩野派様式の)しか描くことができないとよの、その画鬼の家で育った者の苦悩を綴った小説でありました。

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