mixiユーザー(id:2810648)

2022年04月23日12:29

27 view

読書紹介2174●「二つの星」

●「二つの星」 山崎光夫著 講談社 10年版 1800円
 副題は「横井玉子と佐藤志津 女子美術大学建学の道」である。本書は、この女子美術大学という、地球上に2つしかない大学の建学を辿る本である。もう1つは、アメリカ・フィラデルフィアの「ムーア美術大学」である。ともに100年余の歴史と伝統を有する。
 始めに、佐藤志津(1851年生)と横井玉子(1854年生)の生い立ちを描く。玉子の義父は、幕末の巨頭の1人・横井小楠である。志津の父・尚中は、佐倉順天堂第2代堂主で、明治天皇の侍医を務め東京大学医学部の創設者である。
 玉子の夫は、アメリカ留学後に元老院権少書記官となるが若死にする。志津の夫は、佐藤家に養子に入り第3代堂主に。日露戦争の勲功により男爵を授与。日本一の外科医となる人物。ところで2人の関係である。結びつけたのは、佐倉出身の画家・浅井忠である。玉子は、浅井の弟子となったのだ。
 女子美術大学を開校(1901年)させたのは玉子である。それまで、女子教育に尽力していた玉子だが、女性の自立には「美術の充実」が必要と女子美術大学の建学に尽くす。玉子のいう美術とは、絵ばかりを指すのではなく、音楽、彫刻、詩歌、小説、演劇、建築、裁縫、手芸、編み物、料理なども乞含するものである。
 明治に入り東京美術学校が開校されるが、それは女子を締め出したものだった。この現状を憂え、また美術学校で女子の自立の道をつけたいと、女子美術大学設立に玉子は踏み出すのだ。
 その頃、玉子は血を吐くようになり自分の命の短いことを知る。死ぬ前になんとしても女子美術大学の開校を決意する。開校後、世間では「女をペンキ屋に仕立ててどうする」と揶揄されるが、玉子は「何か別な力が働いて、わたしを突き動かした」と志津に語る。その何かとは、小楠から教えられた「女武士道」ではないかと志津は考えた。損得抜きの世界である。
 ところで志津の参加である。これは、開校後の経営困難を玉子が志津に救いを求めたことによる。閉鎖の瀬戸際に立たされた女子美術大学を、志津は順天堂の財力をかりて救うのだ。これにより、「順天堂医学部の付属女子美術大学」と言われるようになる。
 志津は父に従って上京した際、請われて3年間ほど宮中に出仕した。その際に、幅広い交友範囲と著名人の夫人たちとの交流で、女子美術大学支援の輪を広げることに成功するのだ。
 ということで今日、女子美術大学(杉並に移転)の敷地内には、玉子と志津の胸像が建っているという訳でありました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年04月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930