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2021年10月02日12:15

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読書紹介2111●「小説 曲直瀬道三ーー乱世を医やす人」

●「小説 曲直瀬道三ーー乱世を医やす人」 山崎光夫著 東洋経済新報社 18年版 2400円
 安土桃山時代の医師・道三の生涯を描いた本。道三は父母を幼い時に亡くし、叔母と姉に育てられる。好奇心と集中力が高い道三の性格を見た叔母は、8歳の彼に学問をさせるため禅寺に入れることに。
 禅寺での修行の日々で学問を修めた道三は、師の勧めもあり医学へと向かう。医書の勉強を勧めた師は、道三を関東の足利学校に入学させる。そこで道三は、同校出身で明に留学し、金代と元代の戦時医学を修めた田代三喜の特別講義を聴く。
 三喜は関東一円を股にかける放浪医で、富貴貧賤を問わずに診るのを方針とし、弟子をとらない変わり者であった。三喜の医療に感動した道三は、入門を果たす。三喜は弟子をとらないのではなく、その医術が難解なため弟子が逃げてしまっていたのだ。道三25歳、三喜67歳の時であった。
 放浪医は、過酷なものであった。若い道三には乗り越える力があった。そこでは、突然の集団食中毒に遭遇し薬を切らせて鍼で急場を凌いだ。また盗賊に襲わる危難にも遭った。襲ってくる賊に、三喜は袖に隠した豪針を相手のツボに投げ、身動きを封じたりした。これは、乱世の処世術の1つであった。
 やがて三喜は体力の衰えを自覚し、故郷に帰ることに。ここに道三は1人立ちするのだ。三喜の道三への願いは、「医学校を設立し、自分の医学を後世に伝えてくれ」というものであった。
 41歳で京都に戻った道三は、たちまち評判の名医となった。時の権力者や室町幕府将軍を始め、天皇まで道三の治療を求めた。彼らの支援のもと、道三は日本で初めての民間医学校を設立するのである。
 道三の治療法には、中国にないものがあった。それは腹診で、中国人は人に腹を触られるのを嫌うのであった。日本人は平気で、その腹診で道三は患者の「臍下丹田」を探ることができた。患者のなかで、力強い臍下丹田の持ち主は信長と木下藤吉郎であった。乱世を終わらせる人物は、信長だという期待を道三は寄せるのであった。
 ところで、なぜ道三が敵対する時の権力者たちの診察ができたかである。情報が敵対する相手に伝われば、戦いに敗れる危険があるのだ。それは道三の診療方針が、富貴貧賤を問わないことと、守秘義務を固く守っていたからであった。どんなに脅されても、この方針を道三は守り通した。そのことによって、道三は信頼をたかめたのだ。
 ということで、日本初の民間医学校を設立し800名もの弟子を世に送り出したこと。日本人のために医学書をまとめるなど、数々の偉業を成し遂げるとともに、道三は養生にも心懸け88歳の生涯を終えるのでありました。

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