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2017年02月12日17:54

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読書紹介1614・「ペリー」

●「ペリー」 佐藤賢一著 角川書店 11年版 1700円
 ペリーが江戸幕府と「日米和親条約」を結んだのは、1854年3月31日。ペリー60歳を迎えようとしていた時であった。本書は、太平洋航路というものがまだなかった時代に、アメリカからアジアに行くのに大西洋を渡って喜望峰を巡って行かなければならない時代に、アメリカから太平洋を渡ってアジアに行くことを考えた、アメリカ海軍大佐(最高位)ペリーの日本渡航の物語である。
 当初、最新鋭の蒸気船4台と大型帆船7台で行く計画だったが、喜望峰を巡り上海に着いた時点で、計画は大狂いしていた。時あたかも中国では「太平天国の乱」(1851年1月に始まる)の真っ最中で、中国の南半分が太平天国軍に占拠され、南京に首都を置く事態になっていた。
 当地のアメリカ弁務官は、北京政府との交渉の足に勝手に到着していた蒸気船を持ち出している始末。さらに、アメリカ本国から送られてくる予定の船も著しい遅延・中止が相次いでいたのだ。ペリーは、強引に蒸気船を奪って日本への第1回の渡航(1853)を試みる。
 まず沖縄・小笠原諸島に寄港し、そこを補給港を強引に確保してしまう。これで、南太平洋航路ができあがったのだ。次に日本、それも江戸湾を開港させられれば北太平洋航路も実現するのだ。これは、アメリカの地を西のカリフォルニアまで拡大したアメリカならではの、世界制覇の野望に繋がるものであったのだ。
 江戸湾に向かうことができたのは蒸気船2隻と帆船2隻だけであったが、浦賀での艦砲外交は上々であった。第1回は、艦砲外交という圧力で浦賀で「国書の授受」を果たせたのである。
 翌1854年、今回は艦隊も倍近くに整えられ本格的に「通商条約」にまでこぎつける予定だったが、したたかな日本代表に対等の立場で臨まれ「通商条約」ははかなく頓挫。しかしペリーの粘り腰で、「和親条約」を締結。この中に「最恵国待遇」を盛り込み、アメリカの利益を各国に先んじることに成功したのだ。ここに、日本は開国を果たすこととなったのである。
 ということで本書では、ペリーの側から見た日本開国の物語が描かれる。ペリーの日本の印象として国土の美しさを挙げているが、それは国土防衛には不向きだったこと。オランダから長崎経由で小出しに与えられる情報を、飢え貪るような気分で余さず吸収していたという鎖国という事情が、日本の若者たちに皮肉にも若々しい進取の機運を満ちさせることになった、というのでありました。

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