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2015年08月24日17:44

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読書紹介1439・「日本文学の大地」 

 ●「日本文学の大地」 中沢新一著 角川学芸出版 15年版 1600円
 本書では、日本の傑作古典文学(19作)をとりあげている。日本人の自然と文化が溶けあう、「心的空間」をみごとに描きだしていた。
 「源氏物語」では、天皇にとって「権力と性愛」がどんなに重要だったか、ということを物語として描いた本であったこと。それを古代の天皇が、征服した地方の首長の娘たちを「采女(うねめ)」として献上させていた、神へのお供え物を捧げる宗教的システムについてふれている。
 「日本書紀」では、部族社会の集まりであった日本が、天皇のもとに国家という幻影を作り上げる必要があったこと。それは、中国という強大な国家の存在に由来したこと。「日本書紀」によって、日本人は初めて「政治思想」というものを形成したことが描かれている。
 「歎異抄」では、仏教というものがそれまでの「複雑で堅固で周到な言語ゲーム」であったものが、親鸞がその全てを放棄して、ぎりぎり必要なものだけをもって、大地のほうに身を投げ出してしまう、という冒険に踏み切ったものだったことを明らかにしている。ここでいう「大地」とは、日本の自然とそこに生きる具体的な人間世界の全てである。
 「禅竹」では、能は世阿弥が足利義満将軍に見出されたことによって完成させられたことにふれている。義満が手本とした政治権力は、敵である後醍醐天皇の政治思想だったこと。後醍醐天皇は、天皇の権威というものを、古代以来の天皇霊とそれよりさらに古い大地霊とを一体化させた、二元的な論理で表していた。義満は、後醍醐天皇の論理に代わる新しい中世的表現形態を求めた。1つは、幕府権力の支えを、明帝国の権威に求めたこと。2つには、武士がつくる王権は天皇の王権に対峙できるものとして、幽玄な芸術をとおして表現しようとしたこと。それが、観阿弥と世阿弥父子による能だったのである。禅竹は世阿弥の娘婿で、「明宿集」などの著作を残している。そこでは、日本の古い神(宿神=翁)と法華信仰や禅の悉有仏性(あらゆるものの本質は仏と同じ)を結び付けて能に表したものであった。
 全編これ、目から鱗の驚くべきことが書かれていた本でありました。

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