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2023年03月19日13:08

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読書紹介2280●「コンニャク屋漂流記」 

●「コンニャク屋漂流記」 星野博美著 文芸春秋 11年版 2000円
 本書は、ノンフィクションである。著者の住む品川区五反田の戸越の屋号は「戸越」。祖父の量太郎が戸越に越してきて町工場を起こしたから、ここが著者の故郷になった。屋号は東京で使ったのではない。使ったのは、祖父の故郷である外房の岩和田(現いすみ市。合併前の御宿町)の親戚たちが屋号で呼び合うため、付けられたのだ。
 量太郎(4男。本当は兄2人が幼児期に死亡しているから6男)の本家の屋号が、本編の主人公「コンニャク屋」である。本家では、400年前に紀州(和歌山県)から来た2人の兄弟(水手)が先祖であると、言い伝えられている。その1人が「コンニャク屋」を始めたのだ。漁師が「コンニャク屋」を始めるには、漁ができなかった事情があったから。当時の岩和田は、半自給自足の貧しい漁村だった。そこで漁ができないとは、よほど貧しかったということ。
 量太郎はガンで亡くなったが、死ぬ前に「私記」を残した。両親や兄弟のこと、岩和田での暮らしのこと、13歳で東京に出て奉公したこと、町工場を経営したことなどである。なかでも、岩和田での出来事がいきいきと描かれている。そこで著者は、自分の家族や先祖がどのような道のりを歩んだかを知りたくて本書を書き始めたのだ。
 そこで岩和田の先祖の墓参りをしたところ、1つの発見をする。1700年代の墓に、「北川五郎右衛門」という墓石があった。しかも、出身地として「加太」が刻まれていたのだ。加太とは、現在の和歌山県和歌山市の加太である。御宿町史には、幾度もの火事や津波で古い資料が消失している。千葉県の資料を調べても、加太からやって来た「北川」のことは出てこない。
 著者は和歌山市の資料を調べるのだ。そこに、紀州から続々と千葉県に渡った漁師の記録が出てきた。彼らは、外房の銚子から大原、御宿、勝浦、小湊、千倉はもちろん、内房の館山、富津などなど分散してやって来ていた。1船団600人ほどを引き連れてである。当時の岩和田の人口は300人ほど。そこに600人がやって来たのだ。
戦国時代が終わり、江戸時代に入ったタイミングで、関西漁民が東へと移動を始める。漁民たちは鰯を求めて東へ向かったのだ。良質な「干鰯と〆粕」(特に綿田の肥やしに使用)の需要が増大したのに、大坂湾の漁場がすでに飽和状態になっていた。また大坂湾で鰯が獲れなくなって、東へと向かい外房に辿り着いたのだ。
 その網主の1人に、「北川五郎右衛門」の名が記されていた。彼らは秋から春までの9か月間を外房で暮ら鰯漁をしていた。北川が「コンニャク屋」の一員のなり、加太の漁師の誇りから墓石に出身地を刻んだのだ。
 なぜ外房に落ち着いたのか、それは一大消費地である江戸が近かったから。加太の近く(大坂湾から紀伊水道の水域)には、大坂という一大消費地があった。そのため、漁撈技術が高かった。鰯漁に限らず、諸種の漁業がここを中心に全国に伝播・普及していった。漁業というものは、漁法を知っているか否かで漁獲量が格段に上下する。加太には、鰯漁の先進技術があり、外房の漁民は鰯がいてもそれを獲る漁法を知らなかった。先進技術を携えた紀伊の漁師たちがやって来て、にわかに外房の漁業は活気を呈することとなるのだ。
 という話が、著者の和歌山市への取材旅行をまじえて面白おかしく描かれた本でありました。面白かった。

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