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2016年10月24日07:31

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読書紹介1582・「かの名はポンパドール」 

●「かの名はポンパドール」 佐藤賢一著 世界文化社 13年版 2000円
 ポンパドール侯爵夫人とは、18世紀のフランス王・ルイ15世の寵妃である。ルイ15世の孫・ルイ16世は、フランス革命で断頭台の露となったが、その前時代にヴェルサイユで文化面では「ポンパドール風」を流行させ、文化国家フランスを確立させた。又、政治面では「ポンパドール派」を構築し、影の宰相として20年間にわたって活躍した人物が、ポンパドール侯爵夫人であった。
 20代でルイ15世に寵妃となったが、元々が蒲柳の質で少女の頃から病気がちであった。つまり不感症で、夜の生活に耐えられる体質ではなかったのだ。こうして、ヴェルサイユに入って数年で夜の生活を拒否。当然、これでは寵妃たりえないとヴェルサイユを去る決心をしたが、ルイ15世はそれを許さなかった。こうして、彼女とルイ15世の関係は「友情」によって結びつくこととなった。
 もともとポンパドールは、パリのブルジョワの娘であった。幼い頃から容色に優れ、養父から家庭教師を何人もつけられて、文芸全般の一流教育を授けられた。その頃から、彼女の夢は王の寵妃となることであったのだ。
 10代末に侯爵(ブルジョワ出身の)と結婚し一児をもうけたたが、彼女は一計を案じてみごとルイ15世の目にとまることとなった。こうしてヴェルサイユで初めて平民出の寵妃が誕生したのだ。そのため、ヴェルサイユでの風当たりは厳しかったが、一方でなんの後ろ盾のない寵妃の存在が求められてもいたのである。
 ポンパドールはヴェルサイユの風当たりを跳ね返したばかりか、文化の力で「ポンパドール風」を流行させてしまう。その1つに、ディドロらの「百科全集」出版に尽力し、啓蒙思想の普及に努めたことなどがあった。
 夜の生活を辞退してからは、ルイ15世はもっぱら政治の相談を彼女にするようになる。こうして、正規の内閣とは別にポンパドールの部屋での会議が実質的な内閣となった。その最大の課題が、300年続いたオーストリアとの戦争を終わらせ同盟を結ぶことであった。それは、オーストリアの女帝マリア・テレジアとポンパドールの女でなければわからない微妙な感覚によって成功したのだ。
 こうして、オーストリアとの「外交革命」成就したのだが・・・。という物語。ポンパドールは42歳で亡くなるが、亡くなるまでの20年間が本書では描かれたのでありました。

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