●「李嗣源 下」 仁木英之著 朝日新聞出版 10年版 840円
李克用の実子・存勗(そんきょく)は、唐を滅ぼした梁(後梁907〜923)を追いつめ唐(後唐923〜936)を再建した。しかし唐の皇帝となった途端に、これまで軍の先頭に立っていた(その蛮勇のため、多くの部下を失った)雄々しさが消え、盛唐の爛熟した文化に浸り俳優や楽人などに高位を授け国庫を費やしていった。こうして、軍人への給料も滞るようになったのだ。
北方で、契丹人と戦っていた李嗣源は、部下たちに担ぎ上げられ後唐の都・洛陽へと迫った。「李嗣源将軍洛陽に迫る」との報を聞いただけで、宮廷人は皆逃げ去った。皇帝李存勗は、その騒ぎの中で部下に首を獲られてしまったのである。こうして洛陽に無血入城した李嗣源は、後唐の第2代皇帝(それでも暫くは監国を名乗って、皇帝名を拒否していた)となった。齢60歳であった。
李嗣源は皇帝になりたくなかった。しかし、なったからにはその勤めを果たさなければならなかった。その彼の戦略は、「戦わないこと」「自立したい者には自立を許す」ということであった。しかし、皇帝となったいじょうは「中華を統一する」のは自明のことと皆に思われ、彼の意見を通すことは困難で、各地との戦闘は収まらなかった。しかし李嗣源のその姿勢によって、その治世は長い五代の戦乱の中で屈指の善政であったと称えられることとなった。
李嗣源の死の直後から、再び中華の地は戦乱の地となった。李嗣源の意志を継ぐ人物が、彼の子(実子・仮子・娘婿)の中に1人もいなかったのである。
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