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2015年06月07日08:34

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読書紹介1409・「劉邦 上」

●「劉邦 上」 宮城谷昌光著 毎日新聞出版  15年版 1600円
 秦の末期、沛県の帝長(下級官吏、門番の責任者)だった劉邦は、始皇帝陵完成のため80人の人夫を率いて沛県を発ったが、途中で30人が逃亡したため人夫を故郷に帰らせた。その言い訳として、「帝長が逃亡したから帰って来た」と言えと云うのだ。劉邦は仁義の人で、若いころは任侠の世界に足を踏み入れたことがあった。同郷の人々に罰が科せられないよう、いわば人助けをしたのだ。この時、劉邦は47歳であった。
 国境近くの山に籠った劉邦たち。これが、秦との戦いの第1歩となるのであった。やがて、彼の許に人々が集まるようになった。その数は50人となった。そんな最中、劉邦と同じく人夫900人を率いていた陳勝と呉広が秦に叛旗を翻したのだ。「陳勝・呉広の乱」である。
 大雨のため、期日内に始皇帝陵に行けなくなったためだ。秦の法律では、期日に間に合わなければ行っても逃げても罰せられのだ。この軍は瞬く間に万余に増え、近隣を当たるところ敵なしで進軍した。気を良くした陳勝は、「王」を称するようになった。この時点で、陳勝の軍は「私欲」の軍へと変貌したこととなる。
 陳勝の軍に攻められることに悩んだ沛県の県令が、劉邦に沛県を護ってもらおうと、彼の罪を許し沛県に呼び戻した(劉邦の仲間の知恵である)。秦軍が来たら、劉邦に罪をなすりつけるためでもあった。
 ところが劉邦が沛県に戻ると、門が閉ざされていた。県令が気を変えたのである。そこで劉邦は、沛県の父老を動かし県令を排除(殺させた)し、沛県に入城したのであった。劉邦は、父老たち(つまり、沛県の民衆)によって県令に推戴されたのだ。
 こうして劉邦は、沛県から他県に打って出ることとなる。それは、兵法も何も知らない軍が、幼児のごとくヨチヨチ歩きをするようなものであったが、行軍を進めて行くうちに、兵法の道理を皆が学んでいく道程でもあった。
 ということで、上巻は終わり。中・下巻と続くようでありました。

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