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2024年04月24日12:57

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読書紹介2392●「墨攻」

●「墨攻」 酒見賢一著 新潮文庫 1991年版 320円
 戦国時代(前403〜221年)の中国、まさに侵略されんとする国々を救援、その城を難攻不落と化す謎の墨子教団。その教団の俊英、革離が小国・梁の防衛に派遣された。迫り来る敵・趙の軍勢は2万。梁の手勢は民草をあわせて数千人。城主は色欲に耽り、守備は杜撰であった。
 本書は、革離がたった1人で城を守り抜こうと奮闘する物語。著者の酒見が23年11月に亡くなったと知って(今年に)、再読した本である。この本は漫画となり、漫画を原作とした「日中韓」の合作映画にもなった。映画は、革離に心寄せる女性のことも描かれるなど、複雑な物語となったが、本書はきわめて素っ気ない。
 墨子とは、開祖・墨てきの尊称である。この思想家が活躍したのは紀元前5世紀。孔子と同時代である。墨子教団が、よその国の紛争を煽るように乗り込んでくると、「まるで傭い兵と同じ」と見る者、その一方では「非攻だの兼愛だの」と唱えるのを奇妙だと思う者がいた。
 後世のキリスト教は、この兼愛をイエスの「隣人を愛せ」と同じだ、と評した。しかし、墨子と彼の教団は戦闘集団でもあった。精強無比の軍団が日夜、戦闘、戦術の工夫に精励していたのだ。墨子はこの時代に、「1人を殺せば単なる犯罪者だが、戦争によって多くを殺せば英雄だ」という警句を、2000年前に憤激とともに吐き出していた。
 革離は梁(墨者派遣を要請)に出発する前、巨子の田ジョウ子(教団の長、独裁者)から「秦に行け」と言われたのを拒否している。田ジョウ子は新しいタイプの巨子で、政治性が濃厚であった。彼は、秦と結んで、秦の力で6国を平らげ、その後に秦を滅ぼして「平和で平等で愛にあふれた世界」を実現しようとしていた。革離は、そこには「任」(任侠のこと。開祖の思想)がないと拒否したのだ。秦は、攻められて難儀しているわけでもないからだった。
 巨子の命令に背いた革離は、そのため1人で梁に向かうこととなった。城を難攻不落に造り替えることから、教団が開発した新兵器製造、果ては食糧の備蓄法や消費方法まで不眠不休でやり遂げた。
 革離が城に乗り込んで最初にしたことは、「この城の兵の事に関しては、すべて私に任せていただかねばなりません」というもの。城主の許諾を得た革離は、極めて厳格な規律によって、整然と動く組織をつくりあげた。独裁者となったのだ。来城してから5日間、革離は寝ずに人々に率先して仕事をした。その姿に人々は驚嘆し崇めるようになった。
 そして、趙の2万の軍勢が押し寄せてきたのだ。趙の将軍は一撃で崩せると思っていたのに、梁の守りの余りにも固いことに驚愕する。捕虜から革離の存在を知る。そんな時に、本国から帰還命令がおりる。しかし将軍にも意地があった。去る前に革離に一泡ふかせなければ気が済まなかった。
 一方、無傷で帰還した捕虜のなかに城主の跡継ぎ(若様)の側室がいた。捕虜となった者たちは、梁城の内情をすべて漏らしていたことから、内通者として処刑することとなった。側室も処刑されたのだ。それに怒った若様が、城内で革離に弓を射かけたのである。それを見た住民が、若様をメッタ刺しして殺した。革離は、「側室を殺したのは失敗であったか」と漏らして亡くなった。
 革離を失った梁城は脆かった。あっけなく壊滅した梁城を見て、将軍は「何があったのだ」と唖然としたのである。その後、秦始皇帝は法家の思想を用いて6国を滅ぼした。しかし、具体的な組織のモデルとしては墨子教団があり、それを容れたともいえる。秦が墨者を飲み込んでしまったのである。

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