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2022年09月25日13:48

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読書紹介2229●「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」

●「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」 神坂次郎著 新潮文庫 1987年版 520円
 本書を読んで、南方熊楠とは何とも騒がしい人物だと思った。子供の頃から神童といわれ、字書でもなんでも読んだものを暗記してしまう天才であった。勉強ずきで、一心不乱に読書する。ところが学校嫌いであった。
 学校でも面白くない教科には欠席し、野山を歩き回り自然観察に明け暮れるのだ。自然児熊楠には、画一的な学校生活が耐えられないのだ。そんな熊楠も、18歳で東京大学予備門に入学する。同窓に、夏目漱石や正岡子規などがいた。しかし、学校嫌いの熊楠は1年でここも飛び出してしまうのである。
 熊楠が20歳でアメリカに出たのは、様々な理由があった。親に妻帯や金貸相続を迫られたり、徴兵という災厄があった。それを振り切るための、アメリカ行きであった。ところが、アメリカでも学校嫌いは変わらなかった。
 そのアメリカ時代、熊楠は緑の藻の新種を発見。英国の科学雑誌「ネーチュア」に発表し、米国立博物館より「緑藻」の標本と指導を求められた。熊楠のこの成功は、日本では無視された(学歴がない)であろうが、アメリカにいたことが幸いした。
 以後、アメリカの学生相手に大立ち回り、そして脱走、フロリダ半島、キューバ島での革命戦争、イタリア曲馬団の象使いの助手としての巡業、イギリスのロンドンでの生活、支那革命党の孫文との出逢いなどが描かれていく。熊楠が海外で羽ばたいたのには、彼の語学力による。なにしろ、半月あればどんな国の言葉も自由に話せるようになる程の天才(生涯で18か国語を操った)だったのだ。
 ロンドンでは、大英博物館の館長や東洋部部長に熊楠の能力が愛された。大英博物館に嘱託として勤務しながら自学自習に励み、たちまちにして頭角を現した。数々の論文を、「ネーチュア」その他に発表したのだ。ロンドンでも、粘菌の新種を数々発見している。
 ロンドン在住中に両親が亡くなった。弟が熊楠の相続財産を預かったが、突然、弟からの送金が途絶えた。熊楠の極貧生活が続くが、遂に耐えきれずに帰国することに。熊楠35歳となっていた。
 金銭感覚に疎い熊楠は、弟に実印を渡していた。やがて、自分の相続した土地の名義が弟に書き換えられていたことがわかる。そして、弟からの送金が絶え家族と共に困窮することに。そんな熊楠を、彼を愛する人々が何かと助けるのであった。
 熊楠は激情の人で、その言動は奔放壮大であり容貌も男の逞しさに満ちみちているが、内心、処女にもおとらぬほど恥ずかしがり屋で弱気の一面がある。熊楠が研究以外のことをする時は、必ず酒を飲んでいた。それも大量であった。酔っていなければ大胆なことができなかったのだ。
 その熊楠が晩年に取り組んだのが、神社合祀令(神狩り)反対運動である。和歌山県では、当初の7分の6、三重県では5分の4の神社が合祀で消滅した。そして、鎮守の森の木が伐採され更地にされたのだ(木材の代金は、官吏の懐に入った)。その中には、熊楠が日本で発見した粘菌が生えていた杉の大木も含まれていた。
 神社合祀令反対運動で、熊楠は何度も投獄されている。官人侮辱罪とか、新聞令違反とかである。そんな熊楠の最後の栄誉は、天皇に粘菌のことで進講したことである。粘菌については、熊楠は日本1の研究者であった。
 本書の最後に、著者と北杜夫(作家・精神科医)との対談がある。この中で北は、熊楠は躁病でアル中だったと言っている(北は鬱病)。天才には、そうした人が多いのだそうだ。成程、と合点がいったのでありました。  
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