1枚目 妻オリヴィア・ラングドン・クレメンズ
2枚目 娘クララ・クレメンズ
3枚目 姪アニー・モフェットの娘ジーン・ウェブスター
全部ネットからだが、不審なことにトウェイン一家の集合写真がない。で、仕方がないのでウェブスターを上げておいた。
著者は1960年生、甲南大学院修了、文学博士、就実大学教授
マーク・トウェインの関係ではこれで三つ書いたことになる。彼の印象がみな違うのだが、変幻自在なところがトウェインらしいのだろう。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1926268217&owner_id=34218852
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マーク・トウェインの自伝は他の自伝とは違う。
思いついたことをそのままに書いていく赤裸々な告白だと本人が「かたっている」。あまり繰り返し「かたる」ので信用できなくなった。創作的自伝というべきものでないか。
1835年出生 ミズーリ州フロリダ
1839年 ミズーリ州ハニバルへ移住
1847年 父死亡、学校をやめて兄長兄オーリオン・クレメンズの小さい新聞社で植字工となる。
1853年 兄と意見が合わず(また、母ジェインが兄を支持したので)ハニバルの家から家出してニューヨークで植字工になる。
1869 姉パミーラ・モフェットと二人の子供(アニーとサミュエル)、母のジェインがセントルイス市内で引っ越す。
1870年 オリヴィアと結婚(1845年生)
パミーラ一家ニューヨーク州フレドニアへ移住。
1875 チャールズ・ウェブスターとトウェインの姪アニー・モフェットの結婚
1876 ジーン・ウェブスター出生(あしながおじさんの著者)
1884 チャールズ・ウェブスター出版社設立(トウェイン出資)
1890 母ジェイン・ランプトン・クレメンズ死去
1904 妻オリヴィア死去
姉パミーラ死去
1910 トウェイン死去
1)母、姉との複雑な関係と小説の材料
トウェインは4歳から17歳までハニバルで生活していたが、それ以後に戻ったことはない。しかし、代表作の「トム」、「ハック」ものはハニバルが舞台になっている。著者は、ハニバルのくわしい住人たちの関係やその後を伝えていたのは母と姉だったとのこと。彼らも引っ越していたのだが、ハニバルの友人たちから噂話を教えてもらっていたとのことである。
たとえば、「トム」で凶暴な悪人インジャン・ジョーのモデルは実は温和なインデアンとの混血児ジョー・ダグラスだったのだが、トウェインの家出後にハニバルに現れたのであって、そもそも面識がないのである。
トウェインはハニバルの優等生であって、勉強する気のないトム・ソーヤーでもハックルベリ・フィンでもなかった。兄のところでは、植字工の技術と文才を磨いていたことで、新聞社運営の意見が兄と合わず家出した後、姉パミーラ・モフェットが結婚して住んでいたセントルイスではなく、ニューヨークへ行ってしまった。
トウェインは母と手紙のやり取りを頻繁にしているのだが、兄への不満を書いた手紙は残っていない。体裁が悪いと思った手紙は母が破って捨てたらしいのである。
小説内では、「トム・ソーヤー」で、木の皮に書いておいた家出の無事を知らせるメッセージにポリーおばさん(つまり母)は気が付かなかった。
ハックも養母のミス・ワトソンにジムの居所を伝える手紙を書いたのだが、破り捨てる。どうも母親とのコミニュケーションが取れなかったようである。
母は親分肌で社交好き、それに判事の夫の妻として無頼漢が彼の娘を縛って鞭うつというのを叱りつけて謝らせてもいる。
☆海風:
不思議なのは、この評伝でもトウェインとジーン・ウェブスターの関係には全く触れていないことである。トェインはジーンの父の始めた出版社に出資したりして援助しているのだが、それは姉パミーラへの恩返しの意味もあるのだろうし、当然、姉の孫娘のことも知っていたはず。その孫娘がトウェインの生きている間に小説を書き始めていたという。代表作の「あしながおじさん」は死後になってしまったのだが。
で、「あしながおじさん」のジュディは匿名のあしながおじさんから作家になるために大学へ行かせてもらうことになった。なぜ、おじさんはジュディの文才を見抜けたのか? あるいはウェブスターは見抜いて欲しかったのか?
なら、近くにいて見抜ける人というのはトウェインなのである。おじさんのモデルは大金持ちと言うことで、トウェインの義父ジェーヴィス・ラングドン(ジャーヴィー坊ちゃんの名と似ている)説や、トウェインの友人だったスタンダード石油会社副社長説もあるが、小説家になりたいウェブスターのあこがれに人はトウェインを置いて他にないではないか。
ということで、本書ではパミーラのことに詳しく言及しながら孫娘のウェブスターを忘れているのが不可解だった。分かる日が来るかどうかなのだが?
2)東部の富豪の娘との結婚とキリスト教の位置づけ
ところで母親も父親もイングランドの名家出身とのことだが、特に母親のランプトン家はダーラム伯爵家のランプトン一族だった。それは母生涯の誇りだったが、その意識をトウェインも継承していた。上流階級の一員になることを希求していたし、ミシシッピ河の操舵手になってからも判事の娘と結婚を前提にした交際をしたことがあった。
結局それは身分違いのゆえに実らず、人気ユーモア作家となってから、ニューヨークの富豪の娘オリヴィア・ラングドンと結婚することとなった。オリヴィアとの結婚を仲介してくれたのはラングドン家の友人メアリ・メイソン・フェアバンクスだったが、彼女には母さんと呼んで、禁酒の誓いを書き送っている。
東部の上流階級の社交界に通用する人物であるためにはキリスト教徒であらねばならない。トウェインはオリヴィアへの手紙で「あなたに導かれて私は敬虔なキリスト教徒になろうとしています」と何度も誓ったとのことである。
東部の上流階級の女性たちは、禁酒運動、女権運動それに奴隷解放運動に熱心に取り組んでいた。トウェインが「ジャンヌ・ダルクについての個人的回想」を書いたのは偶然ではないとのこと。ここには母ジェインのことも書かれているとのことだが。
一方、オリビアは元々病弱で、その上少女の頃にスケートで転倒し2年間寝たきりだったという健康不安があり、ラングドン家では果たして主婦が務まるのかという危惧があった。それに対して、トウェインは自身の秘書が務まることを示して安心させたのである。
さて結婚してみて大いに安心したことには、オリヴィアは家政の切り回しが上手で、格別熱心なキリスト教徒ではなかったことである。
結婚前のことだが、イエスは人間だったと自分の意見を言って、オリヴィアに救世主のことを死すべき人間と同じに考えてはいけないと戒められて直ちにその考えを撤回したりしていたが。
しかしながら、結婚した後では、「リヴィ、僕はキリスト教徒になれなかったよ」と告白して、「いいのよ、ぼうや」と許されたとのことである。
☆海風:トウェインはトムのようないたずら坊主ではなく成績優秀だった。小学校しか出ていないのであるが、それでも兄のところで植字工の技術や文章の勉強をして一人前になっている。
さらにミシシッピを下って南米へ行こうとして乗ったのだが、そこで操舵手の仕事を見て決心を変え、高い給金の貰える技術を身につけている。
そして最後の終生の仕事になったのが作家であった。上流階級になる夢を努力で叶えたわけである。
しかし当然ながらというべきか、心からのキリスト教徒になれたわけではなかった。彼が「トム」を書いたのは、妻のオリヴィアから中西部の少年時代を知りたいと頼まれたからだそうであるが、その主人公のトム自体が彼自身ではなかったし、そもそも優等生など登場しないし、外からやって来たベッキー(つまりオリヴィアだと思うが)以外に子供たちが聖書の教えを熱心に学んでいた気配はなかった(覚えている限りだが)。
むろんここには開拓時代の中西部の田舎町(townというのか)の生活が描かれていて、それが一つの読みどころなのだが。
まあ、オリヴィアとも結婚できたし、もう安心とばかり自由の精神を持つ少年たちを描くことができたのだろう。彼らこそが、東部の上流階級以外のアメリカ人の似姿だったわけである。
思い出せば、昔アメリカの連続テレビドラマに「ビーバーちゃん」というのがあった。信頼され家族を大事にする父とオリヴィアさんみたいな優しい母のいる絵に描いたような家庭だったが、そこで父親がそろそろ本も読まねばと言って小学生のビーバーちゃんに「トム・ソーヤーの冒険」を勧めたのである。それどんなことが書いてあるのかと母親が読んで驚いた。これは家出したり、夜遊びをしたりする不良少年の話ではないですか。いけません。ということになってしまったのである。
多分、書かれてから80年(1950年代くらいか)たっているはずだが、東部の良家の家庭には猶もなじまないものだったらしいのである。
ほとんど同時代の「若草物語」1868年(トムは1876年)は東部の本拠地みたいなコンコードの信心深い良家の少女の物語だが、中西部の開拓地は全く違う雰囲気だった。そういえば、アメリカは現在でも大きな地域性の違い(断絶とか言う場合もあるが)を残している国ではある。
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