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2018年04月05日05:51

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ファンタジーの中へ(94) 後藤和彦「迷走の果てのトム・ソーヤー」

1枚目 いかにも悪ガキのトム
2枚目 ミシシッピの川蒸気船
3枚目 ハックと黒人奴隷のジム

 後藤和彦「迷走の果てのトム・ソーヤー 小説家マーク・トウェインの軌跡」松柏社2000
 著者は1961年生、立教大学文学部教授
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1926268217&owner_id=34218852
以前に描いたトウェイン自伝に関する書評

 本書はマーク・トウェイン(本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ1835−1910)の作家論である。
 本書のタイトルの示す「迷走」とは、作家マーク・トウェインというペン・ネームが、自身の、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズの生い立ちから逃れようとして選んだものであることを意味する。
 作家活動はルポルタージュから始まり、その大成功を受けてトム・ソーヤーを主人公とするフィクションへと続いた。
 トムはハンニバルでの少年時代の数人の友人から造形したものだと、トウェインは証言しているが、実際はサミュエル(以下、サム)自身と言わねばならない。サムはいったん逃げ出した自身をもう一度見つめなおそうとしたのである。
 しかし、その結果は迷走し続けた作家人生に終わったと言わねばならない。サムと言う自身の存在があまりにも苦痛だったからである。それゆえに作者の後藤は、トウェインをうらやむべき作家だったと評価するのである。・・・なんだか太宰治みたいだが?

 後藤は、トウェインの苦痛の原因を、少年時代の親子関係、青年時代に起きた南北戦争での挫折と迷走などに求めて、時期別に伝記事実と作品との対応を分析している。

 サムの少年時代は、父親に見捨てられたような存在だった。クレメンズ家はヴァージニア州の旧家だったが、祖父の早世をきっかけに没落した。父はフロンティアのミズーリ州の開拓地でクレメンズ家を立て直すべく奮闘していたのだが、しかし、家代々のの遺伝なのか熱しやすく冷めやすい性格で、商才にも欠けて失敗ばかりしていた。
 かわいがっていたのは長女のパ−ミラ(1827年生)ばかりで、若くして急死するときも枕元に呼んで別れを告げたのは娘一人だったという。
 それにサムには夢遊病の体質があり、ストレスがたまった時には眠りながら家の中をさ迷い歩いたという。

 これでは、悪知恵に長けた悪童トムとは言えそうにないが、実在のサムの面影をトムに求めるなら、いたずらしたり家出したりでポリーおばさん(孤児となったトムとシッド兄弟を引き取ってくれた。実母がモデルとされる。)に心配かけていることに思い至って、たびたび深く後悔するのである。外見には絶対に見せないのだが。
 また医師殺人の犯人とされて逮捕され、処刑間違いなしのならず者が、実は犯人ではないことをトムは現場を見ていて知っている。しかし真犯人の冷酷なインジャン・ジョーが恐ろしくて真実を証言できない。その葛藤に悩みぬく姿なども、ストレスから夢遊病を発症するサムの気質に近いようである。
 ・・・逆に言えば、悩むトムの姿が描かれていることで、単なる悪童物語を脱しているのだとも考えられる。

 一方では、嘘でもホラ話でも湧くように口をついて出てくるサムがいる。他方には、父に無視されていた孤独感や家族の不幸を自身のせいと思い込み罪悪感に沈むサムがいる。子供の時には、姉マーガレットの病床に夢遊病となってふらふらやって来て家族を気味悪がらせた。その姉は直後に死んだのだった。
 また、成人後には、川蒸気船で弟ヘンリーの事故死があった。この場合は、確かに自身が弟を呼び寄せたから起きたことではある。

 この二面性をどう処理するのか。筆者の後藤は、記者となったサムの選んだペルソナは、マーク・トウェインの筆名に表われているとする。Yours dreamily, Mark Twain が最初の署名で(夢見る親友、または夢見心地にて敬具)と訳せるという。
 その意味は「水深二尋」ということで、ミシシッピの川蒸気の水先案内人が、水深を測って安全に航行できる時に船長たちに知らせる言葉である。だから、定説的には、船乗りたちがほっとする言葉をペンネームにしたと、そのように読者にも心が休まるものを書きたいとの思いで選ばれたと解されている。
 しかし、筆者は「片や安全、片や危険(二面性に気を付けろ)」という意味だとする。確かに水深二尋は境界線だから。
 そして、もう一つは夢と現(うつつ)の間に生きている、書いていることを示しているのであろう。夢遊病質であることも反映しているにちがいない。

 マーク・トウェインの最初のルポルタージュである「赤毛布(赤ゲット)外遊記」(地中海周遊クルーズ)は、当時のアメリカが手本と仰いでいた先進国の欧州諸国の紀行文なのであるが、田舎者の目で権威ある美術品や遺跡が、良いものは良いとするが、権威倒れのものは容赦なく批判されているとのことで、彼のアメリカでの名声を確立させた。読者は古いヨーロッパ文明への劣等感から解放され、留飲を下げたのである。

 それ以上の収穫は、チャールズ・ラングドン青年と知りあい、彼の尊敬を得たことであろう。と言うのは、後に妻となる姉のオリヴィア・ラングドンを紹介されたからである。
ラングドン家はニューヨーク州エルマイラに住み、彼女の父ジャーヴィスは、材木業や石炭業で財を成した商人であり、同時に「アンクル・トムの小屋」の作者ストウ夫人や彼女の兄弟の牧師とも親しい仲で、奴隷を救出する地下鉄道の車掌(指導者)でもあった。

 マーク・トウェインの父はヴァージニア州の旧家の生まれで、奴隷所有者であった。彼が水先案内した川蒸気船も南部の諸州を往復していたわけで、これが南北戦争開始時に南軍に参加した動機だったに違いないのだが、オリヴィア・ラングドンを妻に迎えたことで、南部批判を鮮明にしたのであろう。むろん、北部によるアメリカ統一(南部支配体制)で奴隷制擁護が許されるわけもなかったのだが。この点、アメリカによる日本占領に似ている。南部も北部によって矯正されたとのことで。
 彼の代表作とされる「ハックルベリ・フィン」は、南部批判を主たるテーマとし、奴隷のジムが無知ではあるが、知恵に富み、トムやハックへの信義に満ちた人物として描かれている。一方、ハックは奴隷主である姜家とジムとの友情の間で動揺するエピソードが語られている。

 彼の代表作は、「トム・ソーヤーの冒険」と「ハックルベリ・フィンの冒険」である。「トム」の方は少年時代の思い出をモチーフにした中西部悪童物語であるが、「ハック」のテーマはトム、ハック、ジムの「トム・ソーヤー」から生まれたキャラクターを使って、南部と奴隷制を風刺したものであった。
 トムの造形は先に述べた。ハックもモデルとなった浮浪児の少年がいたとのことだが、彼の内面はマーク・トウェイン自身を使っているはずである。
 と言うのは、ジムが逃亡奴隷として監禁された家は、偶然にもトムのおばさんの家だった。ジムを探してやって来たハックは、トムの弟のシッドと間違われて歓待されたのである。ただ、おばさんはトムだけが来るとの手紙があったのにどうしたんだろうと不審がるのだが、すぐにトムもやって来て、おばさんの不審を解消して見せた。
 ところで、「トム」ではシッドが優等生でトムのいたずらをポリーおばさんに告げ口してはトムにぶたれるという、仲の悪い兄弟に設定されていた。トウェインの実の弟ヘンリーは仲が良かったのに(そして、サムが蒸気船の職を紹介したことで事故に巻き込まれた)、どうしてこういう設定になるのか、と不思議だったのだが、マーク・トウェインの筆名が表わしている二面性の表現型なのであろう。「ハック」では、シッドがハックと同一視されることで、本来の弟ヘンリーの位置づけを取り戻したのに違いない。
 それに何よりも、ハックにトムの面影が見られるのは、ハックもまた悩みながらジムの逃走を助ける姿であろう。

 「トム」と「ハック」の二作は、マーク・トウェインの少年時代の夢と現の両面を映し出したものだと言ってよいのでなかろうか。
 さらに、作者の後藤は、「ハック」のラストで、ハックがミズーリ州の姜家に戻るのではなく、新たにテリトリー(インディアン居留地)へ逃走するつもりだと述べて物語を終えることを問題としていたが、これはマーク・トウェインの夢と現がなお続くことを宣言したものであろう。
 これが、本書の題名「迷走の果てのトム・ソーヤー」の由来であるが、マーク・トウェイン自身が「果て」を意識していたわけではないと思う。
 また、「二面性」が限界に来たわけでもなく、晩年には相次ぐ家族の死から、自身の死を意識することで、思想的な小説に転じたのでなかろうか。彼は信仰の人ではなかっただろうから、生と死を思想的に描こうとしたのだと思う。

 さて、いささか私も迷走を始めたので、このあたりで打ち切りたい。
 最後に、最晩年のトウェインにとっての明るい二つのエピソードを加えておきたい。

 一つは、「赤毛のアン」にかかわる。トウェインはモンゴメリー「赤毛のアン」1908 を読んで、アンは不思議の国のアリス以来の不滅の子だとの賞賛の手紙を送っている。
このことは知っていたのだが、本書を読んで、トウェイン自身の孤児性、それは「トム・ソーヤー」でも明らかだったのだが、そこに共鳴したに違いなかった。おそらく、彼はアメリカの寵児であるとともに、南北アメリカのどちらの孤児でもあったというべきだろう。「ハックルベリ・フィン」の最後のエピソードで、囚われているジムを妙な芝居で逃がそうとする「遊び」が描かれていて、実は、全くの不評なのだが、これは義父のジャーヴィス・ラングドンの逃亡奴隷の保護者の立場を皮肉っているとみるべきなのだろう。
 「赤毛布外遊記」以来のトウェインは、その二重性、トリック・スター性を全面的に描いてきたのだと思われる。ただし、その原点にはどこにも属さない孤児性があったのだろう。

 もう一つは、「足ながおじさん」1912 の著者アリス・ジェイン・ウェブスター(ペンネーム、ジーン・ウェブスター1876―1916)である。
 彼女は、トウェインの姉パーミラの孫にあたる。彼女の娘のアニー・モファットとチャールズ・ウェブスターとの間に産まれたのが、ジーン・ウェブスターなのである。
この小説は、孤児のジルーシャ・アボットと富豪のジャーヴィース・ペンドルトンとの少し変わった恋物語である。
 この小説が出版された時には、トウェインは亡くなっていた。もう数年生きていれば読むことができたのだが。しかし、当然二人は互いに良く知っていた。父のウェブスターの印刷会社にトウェインが出資していたのだから。
 あしながおじさんのモデルには諸説あるようだが、一つにはスタンダード石油の幹部だったヘンリー・ロジャーズがあげられている。で、ロジャーズはトウェインと親しく、印刷機の発明に投資して破産したトウェインの財産を整理して再出発を助けた恩人である。
 ジャーヴィースの名前は、トウェインの義父の名前と同じであろう。
 ということで、「あしながおじさん」にはトウェインの影響が色濃く残っている。自身の娘たちは先に死んだのであるが、ウェブスターが後継者になってくれたのである。

 参考 年譜
 (1)少年、青年時代
クレメンズ家はヴァージニア州の名家であったが、祖父の早世をきっかけとして没落し、父はミズーリ州の新開地ハンニバルで再起しようとした。
1825年 長兄オリオン、1827年―1904 長姉パ−ミラ
1835年 サミュエル誕生、1838年 弟ヘンリー
1847年(12歳) 父死去 印刷工見習いとして働き始める。
1853年(18歳) 10歳上の兄オリオンの後を追って、セントルイスで記者になる。
1857年(22歳) アマゾン川探検のためにミシシッピを下るも旅費がなくて断念。
         ミシシッピ川の水先案内人になる。(この間に、事務員になって同乗していた弟のヘンリーが爆発事故で死亡)
1861年(26歳)4月12日 南北戦争開戦(〜1865年4月9日)。
          志願兵として南軍に投じたが2週間ほどで挫折。ネヴァダ準州長官として赴任する兄と同行して新西部へ行き、鉱山で金の採掘を試みる。
 
 (2)ルポルタージュ作家時代 1862年(27歳)― 1875年(40歳)
1862年(27歳) モンタナ州で新聞記者になる。
        翌63年から、筆名を「マーク・トウェイン」とする。
「赤毛布外遊記(地中海遊覧記)」
 1870年(35歳) オリヴィア・ラングドン・クレメンズ(1845年生)と結婚
 「苦難を耐え忍んで(西部放浪記)」、共作「金メッキ時代」、「昔日のミシシッピ」 
 
(3)フィクション作家時代 1876年(41歳)―1895年(60歳)
 「トム・ソーヤーの冒険」、「王子と乞食」、「ミシシッピの生活」、「ハックルベリ・フィンの冒険」

(4)不幸が重なり厭世的になった晩年
1896年(61歳) 長女スーザン病死(24歳)
1904年(69歳) 妻オリヴィアが心臓麻痺で、続いて次女ジーンが交通事故で死去。
1909年(74歳) 三女ジェーンが浴室で不慮の死をとげる。
1910年4月21日朝 心臓発作を起こして死去、享年74歳。

1916年 寓話風な中編小説「不思議な少年」
1924年 「マーク・トウェイン自伝」生前の口述によるもの。


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