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2024年05月23日17:47

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フィクションと現実(92) 江崎道朗「朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作」PHP新書2019

 著者は1962年生。評論家、拓殖大学客員教授

 本書によれば、第二次大戦前後にかけて、朝鮮戦争も含めて、ソ連による革命・スパイ工作が活発に行われていた。しかも、その標的となったのはアメリカ民主党のルーズベルト政権で、後継のトルーマン政権も含めてアメリカを経由した社会主義革命戦が行われていた。

 1.ロシア革命に成功したレーニンは世界革命のためにコミンテルン(共産主義インターナショナル)を組織。資本主義諸国(マルクス・レーニンの言う帝国主義国家)に共産党を組織させて革命を起こすように指令した。
 それが成功し、第二次大戦後に東欧や中欧、中国、北朝鮮、ベトナムなど世界各地に「共産主義国家」が誕生し、アメリカなど西側諸国と共産主義陣営との東西冷戦になった。20世紀は水面下の戦いの歴史だったのである。
 1989年(昭和64年・平成元年)にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は自由主義国となり、ソ連も1991年に崩壊した。

 2.1995年に、第二次大戦前後ソ連スパイによる秘密通信を傍受し記録したヴェノナ文書が公開された。それによって、ルーズベルト・トルーマン民主党政権内部に多数のソ連のスパイや工作員がいて、政策に影響を与えていたことが明らかになった。
世界恐慌などによる資本主義不信からソ連・コミンテルンの秘密工作に同調したエリートや知識人ジャーナリストの存在があったし、戦後には多くの知識人や作家がマルクス主義の影響を受けていた。
 代表格は近衛首相のブレーンだった朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)1944年ゾルゲとともに刑死。妻への書簡集「愛情は降る星のごとく」
(近衛首相は敗戦時に自死したが、彼自身がスパイだったとの説もあった)

 3.敗戦後に、GHQの支援を受けた日本共産党は、労働組合を官公労や各企業に結成し、1947年2月1日にゼネストを計画した。これによって選挙で選ばれた吉田内閣を倒して人民統一戦線政府(敗戦革命政権)を樹立しようとしたのである。(ロシア革命も第1次大戦の敗戦革命だった)
 マッカーサーは共産主義には反対だったが、日本の軍国主義者を根絶するためには必要だと思っていた。
 またGHQ内部には、共産主義に同調するルーズベルト大統領派(ニュー・ディーラー)の民生局(GS)と反共の米軍の参謀第2部(G2)が存在していた。
1948年以降アメリカ政府の対日方針が日本を反共の防波堤にするという方向に転換したことで、アメリカによる革命工作は終わる(左翼ジャーナリズムの言う逆コース )。
 以後は、ソ連政府と日本共産党による直接の工作になる。

 4.コミンフォルム機関紙(スターリン自身の論税)による日本共産党の平和革命論批判

 毛沢東は農村が都市を包囲する武装闘争を主張(国内型)していたが、劉少奇は都市で蜂起し、アジアの植民地で革命を起こす国際型で、ソ連は劉少奇を承認した(1950年)。
(後の文化大革命で劉少奇が弾圧された原因になったのでないか)
これによって、野坂参三が提唱したアメリカGHQと連携して合法的に共産党政権を樹立する方針は否定された。

 徳田球一書記長は占領下で「奴隷の言葉」を使わざるを得ない実態がある。無理な要求をすべきでないとした。
 対して、宮本顕治はコミンフォルムに従って、武装闘争による革命を行うべきとした(宮本は後に方向転換する)。
 1950年1月、金日成のスターリンへの会見希望が受け入れられた。この場で、南朝鮮の武力侵攻の許可を取ろうとしたのである。
 そして、駐日ソ連代表部とアジア書記局の劉少奇が日本共産党へ革命準備指令を合同で通告した。
 以後、ソ連からの指示は劉少奇を通じて日中友好協会内の中国・日本共産主義者連合(代表・李平凡)に伝えられた。
 4月には都学連、青年祖国戦線、朝鮮学生同盟がアメリカ帝国主義反対デモを実施した。

 5.第2次大戦中、ソ連にとってアメリカほどありがたい同盟国はなかった。
 ソ連がナチス・ドイツと戦うために、支援物資は百億ドルに相当する1700万トンになった。
 テヘランとヤルタ会談で、ルーズベルトはソ連にポーランドやバルト諸国、満州や樺太を気前よく与えた。
 戦後に米ソ二大国で国際秩序を守るとする構想を抱いていたのである。
 1947年3月 トルーマン大統領(ルーズベルトが死んだので副大統領から昇格)はギリシャとトルコをソ連から守ると宣言した。
 一方、中国共産党への信頼は続いて、台湾への不介入を決定した。中国共産党による台湾占領を容認したのである。

 6.マッカーシーによる「赤狩り」
 1950年2月、当時野党だった共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員が、国務省内にいる共産主義者のリストを持っていると公表し、告発し始めた。
アメリカ政府内の工作員が中国共産党に有利な政策を推進したことで、共産党政権が樹立されたと指摘した。
 マッカーシー上院議員は悪魔のように嫌われたが、1995年に公開されたヴェノナ文書などによって彼の主張が正しかったことが明らかになった。アメリカのシンクタンク太平洋問題調査会がソ連の工作員と密接な関係にあったことが分かった。
 オーウェン・ラテモアやエドガー・スノウ(毛沢東を讃えた「中国の赤い星」の著者)などが工作員だった。また、ガンサー・スタインはリヒャルト・ゾルゲのスパイ組織の一員だった。
 原爆スパイのローゼンバーグ夫妻や、日本に最終通告案を作成した国務次官補のハリー・ホワイトなど。
 トルーマン政権がスパイ対策に取り組まないので、野党の共和党マッカーシー上院議員が告発したわけである。
 1949年7月 トルーマン政権のアチソン国務長官は朝鮮と台湾を放棄する演説を行った。

 7.日本共産党の武装闘争
1950年6月 朝鮮戦争勃発―在日米軍は朝鮮に派遣された。
日本占領の米軍が朝鮮へ出征して
1950年7月 マッカーサーは警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を許可
1951年5月 スターリンは日本共産党幹部を招集、中国共産党幹部も同席して新しい共産党綱領を作成させた。武力革命
1952年2月 中核自衛隊、山村工作隊、朝鮮人による祖国防衛隊を創設

1951年10月(四全協)から53年7月(五全協)まで
共産党が起こした主な事件
警察署襲撃 火炎瓶など 95件 他に伊藤巡査、白鳥警部殺害など
検察庁、税務署など襲撃 48件
学生事件 ポポロ事件など 15件
在日朝鮮人事件     19件
1953年7月 朝鮮戦争休戦

 8.宮本顕治が主導した平和革命路線への転換(六全協)
 朝鮮戦争が38度線でにらみ合う形で終わり、日本への波及がないことがはっきりしたからだろう。
 1955年7月 日本共産党 第6回全国協議会は、中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針を放棄した。
 柴田翔「されどわれらが日々」1964年 は、六全協によって方向を失った共産党活動家学生の喪失感を描いていた。

 1953年3月にスターリンが死亡し、フルシチョフによるスターリン批判や「雪解け」が日本共産党に平和革命路線を選択させたのだと考えられる。
 朝鮮戦争の休戦もスターリンの死亡が影響しているのかもしれない。戦前戦後の革命運動の台風の目だったに違いない。

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