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2017年09月13日13:11

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読書紹介1667・「小説 日本博物館事始め」

●「小説 日本博物館事始め」 西山ガラシャ著 日本経済新聞出版社 17年版 1600円
 明治15年に、上野に博物館と動物園が開館(開園)されるが、本書は博物館の初代館長・町田久成が主人公である。
 久成は、幕末に薩摩藩主から英国留学を命じられ、欧州に赴いた。帰国後、明治となった日本の外交官となったが、国賓として来日した英国王子の接待が「やりすぎ」と難癖をつけられ外務省を追われ、文部省の「大学南校」に左遷させられた。
 初出勤の日、小川に仏像が引っかかっているのを発見し、ずぶぬれになってちいさな仏像をひろった。仏像が粗末に扱われるのは、新政府が神仏分離令の布告を発し、多くの寺が廃寺に追い込まれたからである。
 「古い仏像は、大切に扱われてしかるべきだ」とする彼のもとに、学生たちが翌日から仏像を持ちこむようになった。仏像だけではなく、日本の、古く価値ある道具や書画骨董も、大半が日本から消え去ろうとしていた。日本人に打ち捨てられたものを、欧米人が買い漁っていたのだ。
 久成は、「日本の、古く価値ある」旧物を保存すべく、「旧物保存方」の布告を出すよう働きかけると共に、留学経験から、それらを収蔵する博物館を日本に建設しようと奮起するのだ。
 ということで、幕末の彰義隊との戦いで炎上した東叡山寛永寺の伽藍があった跡地を、久成は「適地」と目につけ、ここに博物館建設を働きかけることに。しかし、この跡地を狙っていたのは久成だけではなかった。寛永寺はもちろん兵部省なども狙っていたのだ。内務卿の大久保利通に頼み込んだ久成は、そこで2つの条件を出される。1つは、薩摩元藩主・島津久光(久成は側近だった)を東京に移住するよう説得すること。2つは、博物館の管轄を内務省にすること、であった。
 その後、大久保が暗殺されたことで、建設途上の博物館は建設中止に追い込まれてしまう。困り果てた久成は、最後に岩倉具視に頼み込むことに。ここでも、岩倉は条件を出してきた。博物館を「帝の博物館」にするというものであった。帝の権威を高めるためであった。つまり、文部省、内務省、宮内庁と、時の権力者の都合でたらい回しにされたのだ。
 こうして、明治15年に上野の博物館が誕生し、破却と海外流出を免れた宝が、永久に保存されるようになったのでありました。

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