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2023年05月22日09:16

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浮世の謎(80) 「我思う故に我あり cogito ergo sum」は暴走する

 デカルト(1596―1650)は、日本で言えば江戸初期の哲学者だが、キリスト教から分離独立した近代思想の祖とされている。それまでは、創造主ヤハウェが「光あれ」と言ったからこの世があることになっていた。デカルトの後でもキリスト教主導は生きていて、ゲーテ「ファウスト」が言葉でなく「行動があった」と直しても、最初は神だったことになる。

 フランス革命(1789―1795)はキリスト教に打撃を与え、この後は知識人が信仰に基づいて思想を展開することはなくなったに違いない。
 ということで、神の抑止力を失った人間誕生である。
 日本人の多くはキリスト教徒ではないが、知識人は我先に「我」を重視した。日本の明治以後の小説(純文学だが)も「自我」をどう描くかを問題にしたわけで、描くべき自我がないことに落胆することにもなった。

 しかしながら、最近の殺人事件を見ていると、「我」がそう思ったことが(ことしか)動機としか考えられないものがある。
 京都アニメの入り口にガソリンで火付けした犯人は、自身の応募した優れたアニメが採用されないばかりか、そのアイデアを盗んだとして大量殺人事件を起こしている。
自分の考えたことが絶対なのである。
 むろん、特に芸術分野においては、その評価が後世になることも多い。ゴッホ、ゴーギャンも宮沢賢治も。
 もっとも、宮沢賢治は信仰の人でもあるので、自身の自我を絶対視したことはないはずである。「私と言う現象は・・・有機交流電灯(生体だから)の一つの青い照明です」
賢治と言う肉体と生活があったことは間違いないが、それが何故「賢治」になったのかは分からないのである。

 日本人は多神教であり、その神も葦の芽から生まれたわけで、人間もいつの間にか生まれていたことになっていて、キリスト教のような自然の支配者の資格を与えられていない。
 無差別殺人事件の犯人は、その動機を「死刑になりたかった」などと言うことが多いようだが、むろん真の理由は「不遇感」であり、世の中への攻撃であり復讐である。自殺者は多いわけだが、たいていは個人で、あるいは心中で死んでいる。

 新聞記者の多くは、世の中を悪くする原因を政治家に求める。それで、自身の不遇感を政治家にぶつける人物も存在するわけである。このタイプの犯人は記事を読んで「我思う」となるのであろう。

 我の重視は、サルトル方の実存主義であり、木の根とか石とかの他の存在を軽蔑どころか、危険視している。サルトル「嘔吐」では、森が攻め寄せるなどとマクベスのような妄想にとらわれる始末である。今の「朝ドラ」牧野富太郎ならサルトルに抗議するに違いない。
 ハイデガーはナチス同調者だと批判されているが、木田元によれば実際は「実存」(つまり)人間より、存在一般(自然)の方を重視していたとのこと。
 したがって、ヒトラーの実存を重視するはずがなかった。むしろ、サルトルの方がスターリンとか毛沢東の実存に理解を示していたわけで、存在一般(庶民一般)の同情者ではなかった。

 確かに、「我」を代表する者が「英雄」に違いない。犯罪者は世の中の矛盾の攻撃者であり、行動する者であり、それによって英雄の資格を持つ者にみえるのだろう。

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