前回、結ばれたばかりのまひろと道長が、もう別れてしまいました。
物語が激しく展開していく一方で、世界観の積み上げが緻密であるため、
あらすじにセリフだけを与えたような唐突感がなく、
大胆な行動であっても、そこに至る背景が小さな説得力をつけ加えています。
今回の史実の大跳躍は、まひろが兼家邸を訪れたことでしょう。
はっきりいって、こういう主人公補正的な大胆さは好みではありません。
しかし、そこに「ここが、あの人の家」という一言を添えることで、
虫けらの無謀な行動が恋心から発する好奇心で強化され、味わいが変わります。
その話を聞いた宣孝が、まひろに「婿を取れ」と勧め、
「器量もそう(!)悪くない」「若くてワシのような(!)男を」と続けるあたりも、
後々のことを考えると丁寧にフラグを埋め込んでいるのがわかります。
そして、ここで「妾になるのは…(イヤ)」という大切な言葉出ています。
まひろにとって妾というと、父が行ったきりの高倉の女でしょう。
たまたま情け深い父だから最後の時間は二人ですごせているようですが、
それまでの長い間、高倉の女はたた待つだけの寂しく貧しい暮らしであったことを
自分の目で見ています。(という描写がありました。)
しかし、まひろの家も為時が無官になり、使用人に暇を出す貧しい暮らしに戻ります。
ここで思い出すのは、亡くなった母が言っていた「うちが貧しいばっかりに」です。
婿入り婚の当時、妻の財力が家の力でした。
まひろは婿を取るにしても、母と同様にこの貧しい家に迎えねばならないのです。
なので、道長に妾ではイヤとは言ったものの、
当時の社会通念に従えば、まひろが北の方になれないことはわかっていました。
だからこそ道長は(社会通念を破って)「遠くの国へ行こう」と言ったのに。
そんな「紫の上」の「零次創作」を大石静は11回かけてキメてきました。
これから道長は、どんどん政治の頂点に上り詰めるのでしょう。
高御座の生首にもひるまなかったのは、直秀を葬ったことと無関係ではありません。
自ら血糊をぬぐって「穢れてなどおらぬ」と言える者に道長はなりました。
穢れた人生を背負い、道兼と同じ方向に影が向いたまま政治的に生きるのです。
というわけで、今回の秀逸は、
帝の出家にざわめくF4青年団に「聞かない方がいいよ」といなす道長の涼しい顔でも、
陰謀のせいかまひろのおかげか道長の顔つきの変化を発見する行成の特別な視線でも、
実資が登場しなくとも道綱がいれば安らぐことができるおやつモグモグでも、
とても勉強になる、
まひろが「長恨歌」を書写しているのは売るため、そもそも「桐壺」は長恨歌が下敷き、
道長が家に通ってこない時点でまひろを北の方にする気がないだろ、
未婚の娘のまひろが兼家の前で顔出ししていいのかなど、
ネット上で流れてくる当時の常識の数々でもなく、
学問はほどほどでも、摂政の地位と力関係についてはとっくに理解しており、
まひろの願いが困難であることを厳しく諭す一方で、
まひろの家庭事情も理解して二人だけの時にサロンに来てと伝える気づかいを見せる、
当時の女性の立場ではこの上ない政治力をもった倫子の政治的にも正しい恋。
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