「神は人が作りしもの」と当たり前のように断言し、 ラダール王子には見える怪しい影も「己の不安の現れ」と言い切るログサム。 なんと近代的な現実主義者であることか。 資本と武力の帝国・タルシュと結ぶのもわかるところです。 かたや、山の王の扉が開いた
ログサムの「カグロがジグロを倒したのは真実か」の問いに、バルサはどう答えるのだろうと一週間やきもきしたのですが、結局、バルサはジグロの思いを継ぐ形で、カグロの名誉を護りました。ジグロがカグロに託そうとしたのは、けっして王の槍の象徴である金の
たった二人で、なんとか叔母のユーカだけを頼りにして、 いったい、そこからどうすることができるのかと思っていましたが、 元氏族長のラルーグや牧童のトトなど、 王の力が届かない場所に広がるネットワークがあることに安心しました。 9人の王の槍による「
書店で見かけた時、買わないわけにはいかないなあ、と思った。 若いころ、はしかのように大林映画に夢中になっていた時期があり、 当然のように、尾道にも巡礼したことがある。 CM監督から映画に転身した大林宣彦は、 「転校生」に始まる「尾道三部作」などの
大河、というか時代物の一つの楽しみは、誰でも知っている歴史的な大事件を、どう解釈するのか、欲を言えば、どう新しい視点に立った描き方をしてくれるのかにあると思っています。その補助線として、掘り起こされた新史実や真偽不明の俗説があって、脚本家は
まず、言っておきたいことがあります。 直虎が「信長に天下布武はできるとは思えない」と言い切ったのは、 皆が知っている歴史的事実を、預言者的に発言をしておりいただけません。 「真田丸」の昌幸も「武田は滅びるぞお」と言っていましたが、 すでに木曽や
父を殺されたことから、カンバル王・ログサムを仇として付け狙ったこともあり、 自分を護るためにカンバルを捨てた短槍の師のジグロが裏切り者とされ、 カンバル王の放つ刺客・王の槍と戦ってきたことを目の当たりにしてきたバルサ。 カンバル王の考え方も人
徳川が北条と同盟することが織田への手土産になるのだろうかとか、石川数正が瀬名と逃亡したら罪に問われないはずないだろうとか、いろいろとツッコミどころはあるのですが、今週の前半というか、大半は先週の信康の言葉をなぞるように、誰も悪くないまま瀬名
今、「文芸別冊 大林宜彦」を読んでいるので、榊原康政から始めましょうか。徳川家の良心・榊原康政の中の人である尾美としのりは、1980年代の青少年の心をわしづかみにした大林映画「尾道三部作」の主演として、うっかり二人で神社の階段を転がっては小林聡
万千代が間者を捕えた功により1万石に加増となり、いきなり「ほんまかいな」な状況。 ただし、その他の軍功を端折ってはいるものの、史実のようです。 当時の徳川の石高が三河・遠江で60万石ほどであることを思えば異例の出世です。 そもそも、広間にいた
それにしても、万千代は、何がどうなってしまったのか、 功績をまとめる才、草履番のトラブルを鎮める才、画の才、薬の才、人の心の機微を見抜く才、 突然に才能を発揮します。 そろそろ、才能が開花しないと徳川四天王に割って入れないは分かっているものの
まずは、「あかりさんのおっぱいも、たぱん」事件の後日談。意を決して開戦した林田先生だが、勇んで歩を突き捨てたものの後続手段がなく、気が付くと、逆に盛り上がった島田九段に完全に押さえこまれているという形勢。ただし、かんじんのあかりさんはという
なるほど、こういう方向にもっていきたいのかと思ったのは、 直虎コト次郎法師が長篠の合戦跡におもむき、 死者の供養のために祈り、声明を唱えたことに対して。 いささか唐突ではあったのですが、ドラマの冒頭から次郎法師は祈ってばかりいたし、 次郎にとっ
藤井聡太四段の人気に「あやかり本」が多数出版されるのは、 大人の事情としては理解できるところだ。 とはいえ、著者が二人目の中学生棋士であり、 十七世名人を名乗る資格を得ている谷川浩司九段となれば、話は別だ。 藤井四段の自宅を訪問し、母から生い立
カルタゴにやってきたプリニウス一行は、そのまま砂漠をシリアに向かって進む。動物と心が通じる少年も、プリニウスと行動をともにすることとなった。少年は料理も達者で器用なのだが、名前すらないというほどで謎が多い。どうやら、フェニキアの神バアル・ハ
まずは、原作から「この世界の片隅に」を大切にしていた者にとっては、 「この玄関の片隅で」というサブタイトルをつけてくれたことだけで、感謝の気持ちでいっぱいです。 直虎保護者篇のベースは、農民になっても直虎がいなきゃ、という設定なのでしょうが、
この回は、しのの哀しみにあふれてていました。 しのといえば、小野政次も出演していたスウィングガールズでトランペットを吹き、 上方落語に入門したり、ロキソニンで頭痛を抑えていたりしたけれど、 井伊家の分家筋にあたる奥山でんでんの娘で、井伊家の当
話題の新書である。 しかも、「地味すぎる大乱」の謳い文句に、 「スター不在」「ズルズル⒒年」「勝者なし」の言葉が添えられると、 かえって、気になってしまうというものだ。(上手く、してやられたのかもしれない。) ただし、「スター不在」はとも
ユリイカの「特集 こうの史代」が識者による「こうの史代・考」であったとすれば、 この「公式ファンブック」は、関係者による映画「この世界の片隅に」への感謝の本だ。一人あたりの持ち分は1〜2ページと短いが、その分、たくさんの人が寄稿している。 まず
また、連載中断で幻の本を読んでしまった。 「サルでも描けるまんが教室」、通称「サルまん」は、 相原コージ・竹熊健太郎により、1989年から91年にかけて連載された 少年マンガの描き方の参考書のフリをしたパロディ・ギャグまんがである。 「売れること」に
「ピアリス」のことを知ったのは、「萩尾望都SFアートワークス」展でのことだった。「残酷な神が支配する」と「あぶない丘の家」を連載中で多忙なはずの1994年に、 木下司という「無名のSF作家」の雑誌連載の挿絵を萩尾望都が担当していた。 それだけで、
西宮市大谷記念美術館の「田嶋悦子展」を見てきました。 1990年前後に美術に関わる仕事をしていたので、田嶋悦子は懐かしい名前でした。 当時、若手の現代美術作家にして陶芸作家だった田嶋悦子が、 いったい、今どんな風になっているのか楽しみでもありまし
さて、何から始めようか。 「エディス」の連載が1976年というから、実に40年ぶりの「ポーの一族」だ。 そもそも、40年以上も描き続けている萩尾望都が何よりも稀有な存在であるが、 「ポーの続きは、どうなったの」と40年間も待ち続けていたファンもたいした
「草間彌生 わが永遠の魂」展は、2017年2月22日から5月22日にかけて、 国立新美術館開館10周年記念展として開催された。 現代美術の、しかも相当にクセのある作家ということもあって、 それほどの人出ではないだろうとタカをくくっていたが、 全国巡回のない
「少女マンガの宇宙 SF&ファンタジー」というタイトルを初めて聞いたとき、 かつて新書館から発行されていたペーパームーンのムックを思い出した。 ひょっとして復刻なのかと思ったほどだ。「1970−80年代」とあるからなおさらだ。1970-80年代は、少女マンガ
新潮社から1994年に出版された「極楽ミシン」から、「這子」「赤い爪」「花束」と、小説「姑が来る」を抜いて、単行本未収録の「豆腐」「帰る場所」を加えて、2017年、KADOKAWAから出版された本である。近藤ようこについては思い入れもあるので、2作も未収録
鎌倉で暮らす四姉妹の生活を描く「海街diary」も8巻目になる。 この巻は、サッカーチームのPKのくだりとか、表札をめぐるエピソードとか、 高校の説明会に向かう幸ネエとすずのことを話している佳乃と千佳とか、 妙に、コメディ部分が目についた。 物語
大島弓子による再開・猫生活漫画の第2巻である。 月1連載、1回4ページなので、1冊になるのに30回分、2年半ぶりの単行本だ。 単行本内の時間は、2014年春から2016年秋なので、ほぼリアルタイムである。 飼い猫が7匹、いりびたりのノラ猫が2匹、 最年長のビーは
強く勧められて見た映画。 とはいうものの、さほど乗り気ではなかった。 というのも、主人公は日本住宅公団で、多くのニュータウン開発を手掛けてきた建築家。齢90歳の主人公と、その妻との二人暮らしを描いたドキュメンタリーと言われても、 なかなか食指が
将棋界の歴史で数人しかいない中学生で棋士となった天才少年を主人公に、 職業棋士として強くならねばならいことを前提としつつも、 むしろ、人として救済されることをテーマにした青春物語である。 原作は、「ハチミツとクローバー」で売り出した羽海野チカ