古事記 葦芽(あしかび)
豊葦原瑞穂の国 葦原と瑞穂(稲穂あるいはキビなどの雑穀の穂)
日本の原風景が葦の国だったのは間違いない。
葦の適地は湖や湿地だが、塩分を含む河口付近や汽水湖でも生える。
縄文時代から日本海航路が開けていて、一日の航海ごとに汽水湖の港町があったとのこと。
沖縄のタカラガイや糸魚川のヒスイは縄文時代から日本各地に流通していた。
1935年の調査で、日本で発掘されたヒスイのすべてが糸魚川さんだと確認された。
古事記の葦芽も日本海沿岸の汽水湖を描いたものに違いない。
で、いきなり中世になるが、
更級日記(1020―60)には「蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中を分け行くに」というように関東ローム層の木が生えない一面の野原であったとのこと。
戦国末期の1562年(永禄5年)には、大阪府四条畷市(しじょうなわて)の飯森城の連歌の会で、三好長慶は、誰かが「すすきにまじる芦の一むら」と詠んだ後を「古沼の浅きかたより野となりて」と付けて一同を感心させ、直ちに戦場へ駆けつけたという(常山紀談)。
つまり、池から野に移っていく風景を、葦からススキに変わっていく生態系の移行に重ねて見せたわけである。日本のどこにでもある風景だったに違いない。
「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉 は江戸時代の大名屋敷町のようだが、塀の向こうに水音がしたのを蛙だと見たものに違いない。
江戸時代末期に江戸へ来た外国人(オールコック「大君の都」など)には、緑の多い田園都市に見えたという。町人の街ではなく大名屋敷の街のことに違いない。
現在、街から街路樹以外の緑が消えたとしても、いたるところに見える遠くの山は緑である。雨が多く、土壌も肥えているからで。
昔、勤務していた頃、中国山地を横断して山陰の大山へスキーに行ったことがあるが、驚くのはアカマツ林一色なのである。弥生時代以来のたたら製鉄用に木を切り続けたことで赤松しか生えなくなったとのこと。(因みに、海岸に多いくねくね曲がるのは黒松、日本庭園も黒松)
日本ではいくら木を切っても(やりすぎてはだめだが)、下草やキノコを含めて再生してくるわけで、神話時代から緑の山に神が宿ると有難く神聖視されていた理由だと思う。はげ山になってしまうようでは有難くないわけで。
で、そこに巨石があると、これぞ神様のお宿だと直感したのである。
春には緑に戻る山は、いわば命の再生を保証する風景であって、死んだはげ山に巨石があっても有難くなかっただろう。
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