1.石川啄木記念館
2.宮沢賢治記念館
今は昔だが、盛岡の近くの石川啄木記念館(渋民村)と宮沢賢治記念館(花巻)に行ったことがある。両者の規模が全く違った。啄木の方は、一室に展示品が並んでいて、隣に啄木が教員をしていた小学校が移設されて、そして北上川沿いに石碑が立っていた。「柔らかに柳青める北上の 岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」
しかし、小学生を扇動してストライキをやらせたりして渋民村にいられなくなったのだろう。東京に出て朝日新聞の植字工になっている。
石もて追われる如く、東京に出たがそれでも渋民が懐かしかったらしい、「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」この山とは、なだらかな姫神山説が有力だが、男性的な岩手山も含めるのか両説がある。渋民から見て西が岩手山、東が姫神山になる。
啄木は盛岡中学で賢治の先輩にあたるが、啄木はすでに歌人として有名だったらしい。その影響もあったのか、賢治の作家としての始まりは歌だった。
妹のとし子が賢治の歌を清書して、友人たちに見せていたとのこと。
で、花巻の賢治記念館であるが、規模も展示の内容もレベルが違う。昔、私が見た時にも啄木のとレベルが違ったが、今ネットで見ると、もっと差がついているようだ。
職場の花巻出身の先輩に、その事を話したら、それは当然だろう。賢治は地元でも好かれているからとのことだった。
確かに、賢治の場合、子供の童話から始まって悲劇的な詩を経過して、武者小路実篤みたいな「新しい村」を作ろうとする社会的な物語「ポラーノの広場」もあるというわけだから。
もっとも、啄木は初めから有名だったが、生前の賢治は無名だった。賢治の葬式の時に、盟友で、音楽教員の藤原嘉藤治はあいさつで、賢治は10年もたてば全国に名が知られると言った。事実は、翌年には全集の企画を立てる出版社があって、高村光太郎編集委員長で、藤原は編集の実務を担っている。
ログインしてコメントを確認・投稿する