今日9月23日は秋分の日の秋彼岸。で、かみさんは実家(今はない)のあった松戸の墓参りに叔母(かみさんの母の妹)とその娘(従妹)と一緒に行ってきた。
で、その叔母の昔話。
その日が終戦の日になったわけだが、叔母が昼ご飯は何だろうと居間のちゃぶ台を見たら芋が置いてあった。あーあ。また芋かと思って待っていたのだが誰も来ない。不審に思って仏壇のある部屋へ行くと、そこで両親や姉兄たちが泣いていたのである。
年の離れた末の妹(昭和20年の春ごろの生まれ)がいたが、母親の乳が出なかった。それで叔母が山羊の乳をもらっての帰り道にアメリカ軍の飛行機が上空を飛んでいた。
慌てて土手に伏せたが、一方で、おなかも減ってきた。傍の畑にトマトがまだ青かったのだが実をつけていた。思わずトマトを口に入れたが、そのまずいこと。
それ以後、トマトを食べられなくなったとのこと。
トマト以外に、芋とカボチャも食べ飽きて、もう食べる気がしないとのこと。
かみさんの母の話
かみさんの母はもう亡くなったが、かみさんに語ったのは2月の雪の日の出来事だった。
ラジオがあったのか、町内会(向こう三軒両隣)からの連絡だったのか、外を見てはいけないと言われていたかみさんの母だったが、好奇心の我慢ができずにそっと少しだけ開けて外を見た。一面の雪の中をザクザク、ザクザクと兵隊さんがいつまでも途切れずに東京へ向かっていた。松戸の北東が柏で、そこの連隊から東京へ向かっていたのである。
昭和11年2月26日朝。2.26事件だった。
かみさんは中学・高校生の頃、父方の祖母と一緒に関宿(ここで利根川が東京と銚子行きに分かれる)で暮らしていた。戦前最後の首相・鈴木貫太郎が引退して暮らしていた家がすぐ近くだった。昭和天皇の養育係で、「雑草という草はありません」と教えた女性、大分年が離れていたが妻を亡くした鈴木貫太郎と結婚したので、そこで暮らした時期があったのだろうか?
それはともかく、かみさんの祖母は終戦記念日になると「すいとん」を作ってくれたとのこと。私は食糧難の頃を覚えているが、食べた記憶があいまいなのだが、麦飯の団子を汁につけたもので、全くうまくないとのことだが、祖母はベーコンを入れるとおいしくなると言っていたとのこと。遠慮のないかみさんは、どうしたってまずいからいらないと食べなかった。
私の昭和20年代後半・小学校入学前
母の父方の実家は鳥取県倉吉だった。食糧難で山科の親しかった農家に着物を食べ物と交換は、農家の売り手市場だったのだろう、まともな物を呉れなくなって行った。
それで、実家の倉吉へ行って古着の着物の行商をすることにしたらしい。
最初は親戚に紹介してもらったのかもしれない。私も兄や姉では世話に困ったからだろう、何回か行商について行った。山陰線の夜行列車、倉吉駅の手前の上井(あげい)駅での乗り換え(当時、倉吉へは山陰本線から支線に乗り換えねばならなかった。倉吉が鉄道に反対したからだとのこと。)、上井駅で延々と続くいろいろな形の貨物の車両を眺めていた。蛙が大合唱している田んぼのあぜ道、浜辺の夏、柿の実っていた秋、雪の降る冬などを覚えている。
後年、松本清張原作の映画「砂の器」のラストシーンで、らい病になって故郷にいられなくなった父と息子の少年が、山陰の海や山沿いに季節の変わる中を行く場面を見て、自分の少年時代を思い出したものである。
「砂の器」の父と少年は警官の世話になって施設へ預けられることになったが、少年は脱走して自分の道を行った。私にはそんな度胸はなったので、おとなしく施設に入ったと思われるが。
ずっと後に読んだのだが、谷口ジロー「遥かな町へ」は、そんな倉吉の街へタイムトリップする漫画だった。
もっとも、私の記憶には倉吉の街は無くて、周辺の漁村(「泊)という小漁村だった)や農村ばかりだった。ずっと後で、仕事で出張した時に、高いところを走っている新しい2号線の上から、海沿いの泊の街の細い道を見下ろすことができた。私の歩いた道だった。
ログインしてコメントを確認・投稿する