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2015年08月11日08:33

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俳句、短歌、詩の幻想に向かって(8) 「ペリカンは秋晴れよりもうつくしい」

1枚目 ペリカン
2枚目 水銀
3枚目 マグリット「記憶」 いずれもネットから

 富沢赤黄男(1902-1962) 「魚の骨」昭和15年所収
 散文みたいに単純であるが、なぜ秋晴れより美しいのかが問題である。それ以前に、比較できるものなのか? そもそも、ペリカンは大きなくちばしでユーモラスなところに特徴がある。ハクチョウを美しいと言うことはあってもペリカンではどうなのか。
 作者はそこを断言する。作者にとっては自身の価値判断が最優先される、それを宣言したものに違いない。ペリカンと秋晴れは、比較の対象というよりは、相互に引き立て合っているのだと思われる。

 「灯を消してああ水銀のおもたさよ」 「天の狼」昭和16年所収
 こちらの方が難解。西塔幸子(さいとう・こうこ 1900-1936)「灯を消せば山の匂いのしるくしてはろけくも吾は来つるものかな」(昭和9年1934)の歌は似ている。この場合は闇になったことで視覚に隠されていた他の感覚が正面に現れた驚きを表現したもの。
 赤黄男句も同じなのだろう。横たわった体が、闇の中で水銀に暗喩された重苦しい空気を全身で感じ取ったのである。

 「蝶墜ちて大音響の結氷期」 「天の狼」昭和16年所収
 これは代表作と思うが、蝶が落ちると大音響を発するというのは日常ではありえない。しかし、結氷期という特別な時期にはありえると思われるし、現にあったわけである。

 結局、難解句の多くは主体に対して比喩がかけ離れているのである。俳句では二物の取り合わせとか二物を衝突させることが表現の手法になっている。その時、近すぎてもだめだが遠過ぎても分からなくなる。それが難解の主因であろう。
 子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の二物の柿と鐘の音は偶然だったわけだが、そしてその限りでは散文のように簡単なのだが、その裏に日常の中に不意に永遠を象徴する鐘の音が侵入してくる驚きが隠されている。

 二物が極限にまで離されたのがシュールリアリズムである。ロートレアモン伯爵(イジドール・ヂュカキス 1846-1870)の「解剖台の上にミシンと蝙蝠の不意の出会いのように美しい」を合言葉に、アンドレ・ブルトン(1896-1966)に主導されたシュールリアリズム運動は1924年の「宣言」から第二次大戦のころまで続いたとのことだが、その影響は大きく俳句にまで及んでいる、というか、すでに俳句の手法だったわけだが。

 画家ではマグリットも影響を受けているとのことで、「記憶」と題された絵を例示しておいた。夏井いつき先生流に、この絵を見て俳句を作るとすればどうなるか? 
 ★秋の海聖母の御眼血を流す
 多分、この胸像はお岩さんではないと思うので、血を流しているのは自分の恨みからではないだろう。聖母は窓の外の穏やかな秋の海を見ているのではなく、室内にいる人間たちの修羅を見ているのだ。


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