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2014年12月17日17:22

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時代を越えて(50) 橋川文三「日本浪漫派批判序説」(3)

 補論2.転形期の自我 ―文芸復興期と現代―
 要約「文芸復興期という言葉は林房雄が言い出したことで、昭和8,9年から12年頃までの期間文壇や出版社で使われていたとのことである。林房雄は「プロレタリア・ルネッサンス」というキャッチフレーズで政治と文学の論争を始め、「長い間続いたプロレタリア文学の圧迫から免れることのできた文壇文学の安堵と期待」(小田切秀雄)を集めたと言う。」p127-128
 ・・・昔見た、永井荷風を主人公にしたドラマで、原稿の売れなくなった荷風が風呂敷に包んで雑誌「改造」に持ち込んだところ、山本社長から「こんな男と女がどうのこうのはもう古い。小林多喜二のような力強いリアリズムを持ってきてください。」などと言われて追い払われる場面があった。なるほど、荷風だけでなく、志賀直哉、徳田秋声や谷崎潤一郎も同様の被害者だったらしい。

 要約「小林秀雄のいう「見えすぎる眼」とは人間としての弱気であり、小林が思想を信じまいとしたのは、現実の多様さをいかなる裁断によっても抹殺すまいと決心していたからであり、志賀直哉と同等の誠実さの資質が存在していた。」p133
 ・・・小林は、昭和4年に「様々な意匠」で「改造」懸賞2席を得ている。1席は宮本健治「敗北の文学」だった。小林にとって、生の現実が思想より優先される。一方、社会主義思想で優先されるのは、下部構造(生産力)であって、考え方の枠組みは似ているが、下部構造は生の現実と同じではない。ちなみに、大正12年刊 萩原朔太郎「青猫」所収に次の詩がある。
「思想は一つの意匠であるか?」
佛は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。・・・小林にヒントを与えたのだろうか?
  
 要約「個人的エゴイズムがそのまま忠良な臣民意識に無媒介に拡大されうるような条件のもとでは、いかなる意味でも社会性はない。私小説作家に私生活は存在したが本来の個人は存在しなかったし、私生活がそのまま公的な意味をもったのである。」p136
 ・・・昭和戦前期の国家総動員体制に至る過程のことを言っているのなら、それは戦時体制に特有のものであって一般化するべきではない。社会性を個人間の対等な横の関係をいうのなら、それがない状況とはよほど極限的なものであろう。なぜこういう分析になるのか理解できない。

 「マルクス主義は、そのトータルな体系性のために、もはや「各人の独特な解釈を許さぬ」ものとして現れ・・・小林は「これこそ社会化した思想の本来の姿なのだ」と述べて・・・思想を社会主義思想範型に即してとらえている・・・」p137-138
 ・・・小林は、社会主義リアリズムの言う「社会主義的人間像」を社会化した個人と考えていたと、橋川は理解した、ということか? むろん、今となってはそんなものはない事は明らかだが。


 「プロレタリア文学の道は、必ずウルトラ・ナショナリズムとの妥協に通じる(竹内好)」p144
 ・・・どちらもソ連の成功と考えられたことを基盤にしていた。対立していたのは近親憎悪だったのでないか。

 要約「小林秀雄において思想とマルクス主義が微妙に同一視されていた・・・後者の挫折は思想そのものの不可能と受け止められた・・・その後の小林の動向― 一方における美への沈潜と、他方における宿命の容認とを含めて、それが社会化した私の正当な展開であると考える・・・」p146
 ・・・思想・マルクス主義から離脱して、美的生活者になったということか。それが正解だったのだ。

 補論3.日本浪漫派と太宰治
 「臼井吉見は「まことに太宰の文学は終始彼の全存在に素直であった。・・・自分の全存在に素直であろうとして、実生活をつぎつぎに破壊した。」と書いている。・・・太宰が希求した全存在への信従態度は、明らかにロマン主義的であったし、実生活の定型破壊というはにかみや照れもまた、やはりロマン的というほかはなかった。」p167
 ・・・全存在の意味は、そのままの自分という意味で良いのか。島崎藤村が「こんな自分でも生きていたい」といったことで、芥川は「侏儒の言葉」で、確か、傲慢だと非難していた。ロマン主義だとしても、太宰のはウルトラ・ロマン主義とでも言うべきものだと思える。

 補論4.日本ロマン派と戦争
 「保田の論理とは、為替相場の下落などを考えず、無我夢中で戦う類の青年たちを主力とし、日本によって行われんとした最後の帝国主義戦争のための論理であった・・・保田の論理は近代戦否定の傾向をますますハッキリさせてゆくのであるが、・・・彼が戦争のロマン化によって、好戦的ムードを鼓吹したとみられることと矛盾しないのである。」p188-189
 ・・・石原莞爾「世界最終戦論」みたいだが、石原は当然近代戦であって、まず満洲国を固めてからという順序だった。しかし、そのロマン的な面だけが表に出たのだろう。その意味では石原の罪だと思う。

 「伊東静雄の戦況への関心は軍事力への素朴な信頼とそれを裏切る不吉な直観との間にたえまなく揺れ動いている。彼は戦果の発表のたびごとに大本営発表を書き写し、己の心の振幅をも併せて簡潔に記している。」p194
 「伊東は、一人の病める魂としてあの戦争と戦っている。彼の日常生活の苦悩と戦争の苦悩とは、ともに克服されるべきものとしてとらえられ、民族の病理と自意識の病理とは一体化してとらえられている。」p197
 ・・・伊東の心情が多数だったのではなかろうか。もう駄目だと思っていたと言う人は、やはり少数だったような気がする。

 「十五年にわたる日本の戦争は日本ロマン派という象徴的運動を生みだし・・・好戦主義のイロニイとして戦争への審美的参加を推進した。そこから、一方には同じイロニイによって構想された絶対平和論、・・・他方には、血の実存によって描かれた戦争の拒絶が残された」p200
 ・・・絶対平和論が日本ロマン派のイロニイから派生し、戦争の拒絶とともに今に続いているということなのか。

・・・さて、これで「増補 日本浪漫派批判序説」の初版部分を読んだことになる。後、増補部分があるが、これは省略する。
 全体としての印象であるが、橋川が日本ロマン派の、特に保田与重郎の内在的批判をしてることはよくわかった。しかし、丸山真男の弟子らしく、昭和戦前期を超国家主義の時代というパースペクティヴでとらえ、その上に保田の思想の軌跡を描こうとしていることで混乱が起きているような気がした。
 というのは、保田は丸山の言う「超国家主義」の時代と考えていたかどうか疑問である。むしろ、林房雄「大東亜戦争肯定論」的な見方をしていたような気がするのである。大英帝国の植民地主義への敵対心があって、その打倒、つまり大東亜共栄圏の実現を夢見ていたはずなのである。それが、イロニイになって行ったのは、勝てそうにない、勝てなくていい、という諦念に沈んでいったからでなかろうか。
 むしろ、戦うこと自体に意義がある。古代から続く日本文化、保田の場合は大和朝廷の文化は亡ばない、いや滅ぶもよし。この戦局に左右されない保田の精神が当時の青年たちの心をとらえたのだろうか。そのイロニイから、合理的判断抜きの絶対平和論が派生したとするなら、よく分かるような気がする。
 それに、国家や民族の滅亡も良しという精神は、ただのロマン派でなくウルトラ・ロマン派というべきで、今のパシフィズムもウルトラであろう。


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