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2014年06月26日07:55

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ファンタジーの中へ(30)  養老孟司「無思想の発見」

 養老孟司「無思想の発見」ちくま新書2005 と「バカの壁」新潮新書2003 を改めて読んだ。以前に読んだのだが、読みやすさに走ってしまって趣旨がよくわからなかったのだった。
 「無思想」の方は、日本人が「無思想」で「無宗教」と自己規定する理由と意義を考察したもので、「バカ」の方は、生きて行く意味は外部にあるのに、自分の中で見つけようとする自分探しなど無意味なことがなぜ流行るのか、それは日本人の集団的無意識によって作られた意義のない壁であろうことを追求したものであった・・・と思う。これらは、執筆された(著者の語りを編集者が書き起こしたものだが)年が近いことからも分かるように、論拠のベースが似ている。

 「無思想の発見」は、古代インド人による「ゼロの発見」になぞらえてあるし、フロイトによる「無意識の発見」ともからませてある。というか、無意識と無思想は同じだと言っているようである。

 (要約)「我思う、ゆえに我ありとして西洋思想は意識を実存化させたが、その意識とは点にすぎない。ここに現わされた西欧の近代的自我とは、中世以来の不滅の霊魂のことである。・・・意識の機能とは、同じということを認識すること、つまり自己同一性アイデンティティのことで、朝目が覚めて昨日から続く自分だと自覚することである。」p35-39
 「自分があるという文化は一神教の世界であって、ユダヤ、キリスト、イスラム教などで世界の三分の二を占めている。」p45
 ・・・このような西欧思想の認識をベースとして、日本人の自意識と対比させている。もっとも、日本人が無思想だと自覚したのは、明治に出会った西欧思想に圧倒されたからに違いない。江戸時代には神ながらの道もあったし、仏教もあり、権威(神聖)と権力(武力)を分ける天皇制・幕藩体制(政治思想)もあった。また、環境も体も心も清潔であることを重視する倫理道徳もあったはずである。ただし、体系化されたものではなかったが、西欧においても中世のスコラ哲学を起源としているのではなかろうか。

 「しかし、あらかじめ自分があるのでなく、後から自分ができてくる。・・・自分とは創るものであって探すものではない。」p48-54
 ・・・この部分は「バカの壁」と共通している。「自分探し」という言い方は、自分の意識を解剖するということでなく、旅に出て自分にふさわしい居場所(恋人も)を探す、という意味だと思う。「いい日旅立ち」などのロマン主義であろうし、ロマン派の小説などみなそうではないか。ただし、今の自分のままで、という意識が強いと思われるので、自分を創り直すという覚悟は弱いかもしれない。そういえば、島崎藤村は、こんな自分でも生きていたいと言って、芥川竜之介から傲慢だと批判されていた。

 「戦後における最大の日本的常識人の一人司馬遼太郎は、思想というものは本来大虚構である。・・・思想は思想自体として存在し、高度の論理的な結晶化を遂げる・・・現実とはなんのかかわりもなく・・・そこに思想の栄光がある。」p110
 「日本人が形を重んじるのは思想がないからである。形に思想はいらない。茶道、武道、神道、仏道、修験道・・・道を思想として説明するのは困難」p147
 ・・・西欧人は演繹的で、日本人は帰納的といってもよいような気がするのだが。神の創造した世界を前提とし、神の設計意図の解明をめざす西欧人に対して、国土さえも男女の愛による結婚から生まれたとして、そこで生きて行く技術を磨いて普遍的な道としてきたのが日本人なのだろう。

 ・・・意識が無意識の大海の中の島のようなものであるのと同じく、思想も無思想の大海の中の島だと、著者は言うのであろう。思想などを意識しないで、与えられた環境と自分の体の指示に従って生きて行くのが人間本来の姿だと。
 むしろ、思想が独立した時に悲惨な殺戮が起きている。それに対して体に従うのは動物的かもしれないが、動物は無意味な殺戮はしないのである。二つの世界大戦と原爆の脅威の後では、思想先行型の行動は抑制すべきとならねばならないが、しかし、キリスト教系過激派が収まって来た今日、皮肉にもイスラム過激派はますます先鋭化している。

 ところで、このような要約だと今までもよくあったことだった。先日読んだ「ハイデガー 存在神秘の哲学」を太助太郎さんの指摘によって援用すれば、神の栄光ではなく、存在の輝きにこそ気付かなければならないことであった。実存(人間存在)とは無限の存在の中で生きて生かされているものであって、サルトルのように実存の投企に価値があり、存在の無意味さに吐き気がするなどとする態度は根本的に間違っていたのである。
 その点に限って言えばサルトルは、デカルト以来の近代哲学の嫡子であり、ハイデガーが西欧思想の革命家だったのだろう。サルトルはマルクスで、ハイデガーはヒトラーでつまづいたのだが、どちらも全体主義(左右の違いはあったが)だったのは、何か時代的な束縛があったのだろう。戦前期の日本人だけがおかしくなったわけではなさそうである。これは別のテーマであるが。
 
 思想に関するものをファンタジーに分類してしまったが、これは、分類を増やすと覚えられないという実際上の問題と、そもそも思想とは、とくにハイデガーなどファンタジーに近いのではないかと思えてきたからである。さらに、小川洋子の小説など、児童用というより大人用のファンタジーに違いない。人間は、もっとファンタジー的な雰囲気の中で、合理的意識の懐中電灯をたよりに歩いているのであろう。それはドラッグ常用者だけではないのである。

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