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2014年05月13日22:36

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時代を越えて(27) 矢次一夫「東条英機とその時代」・・・統帥権の泥沼

 矢次一夫「東条英機とその時代」三天書房1980 を読んだ。一度読んだのだが、後、何もせず放っておいたのである。というか、改めてめくってみたら、いろいろチェックしてあった。
 矢次は1899-1983で、戦前から政治家や軍人たちのフィクサーであり、戦後も人脈を生かしたのだろう、韓国、台湾、中国とのパイプ役となっている。
 本書は、近衛内閣から東条内閣成立までを描いた「政変昭和秘史」産経新聞社 の続編ということで、東条内閣から終戦の内閣までを描いている。ここでは、矢次の語る開戦に至る経緯を知ればよいので、該当箇所の拾い読みで要約して進めて行く。

 昭和16年(1941)8月、アメリカの石油全面禁輸を受けて、9月6日の御前会議で、10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英等に開戦するとの決定がなされた。この後、第3次近衛内閣は総辞職した。
 「御前会議は、政府と陸海両統帥部とが合議したものであり、統帥部の主張は・・・最初から一貫して変わらなかった。したがって、近衛のあとの新内閣が、この決定に反する国策、すなわち対米開戦をしないという方針を立てようとしても、・・・内閣は軍部と激突して・・・崩壊する。・・・統帥部を否応なく服従させ、国内各方面にも反対を言わせない内閣・・・」が求められていた。p14

 「日中戦争で、アメリカと妥協しようとする近衛首相に強硬に反対して、結局総辞職させたのは東条陸軍大臣だった。その後継首相に推されるとは東条自身思ってもみなかったとのことである。昭和天皇からは、9月6日の方針を白紙にして平和の道を探るようにとの言葉があった。」p15-18
・・・心を新たにして、忠臣の東条は天皇の言葉に従うのだが、ところが、これまでの主張から、ほとんどのものは戦争を覚悟したという。アメリカも戦争準備を加速させた。統帥部を従わせるのも大事だが、世界に、当面はアメリカや中国にどうみられるかも重要だった。

 「このころ、海軍の軍務局長は、たとえ東条が首相になっても海軍省は強い戦争反対論であるから、いかに東条が対米強硬論を述べても実行は不可能だと言っていたという。」p35-36

 「ところが、東条内閣発足と同時に、陸海軍の両統帥部は対英米強硬方針を一段とエスカレートさせた。この時は、陸軍よりも海軍の統帥部の方が一段と強硬だったという。アメリカの石油禁輸で早くしないと何もできなくなるからである。しかし、東条は天皇の勅命を盾に協議の継続を主張した。」p49
・・・このあたり、一読して何のことかわからない。結局、陸軍省と海軍省の対立よりも、両軍政と両統帥部(つまり陸軍参謀本部、海軍軍令部)の対立の方が大きいのだ。軍政の方は世界情勢や資源、生産力に、そもそもの予算の方を見ざるを得ないが、参謀たちはこのチャンスを逃せば後は悪くなる、やってしまえば予算をくれる・・・というような思考回路にいたようである。
 明治憲法の特徴だったようだが、陸海軍大臣と陸海統帥部総長に、それぞれ独立した意思決定権を持たせていたのである。シビリアンコントロールのないのはもとより、これでは軍としての統一した行動ができない。「統帥権干犯」という統帥部が首相から独立していることを主張する言葉があるが、そもそもの構造がはじめからそうなっているのである。その矛盾が顕在化しなかったのは、政府の方に元老と言うカリスマがいたからだった。
 満洲事変に発する、政府の不拡大方針と現地軍の独自行動という宿痾は、ここに原因があったようだ。

 「東条内閣は天皇の意を受けて対米交渉に乗り出すのだが、そしてアメリカのルーズベルトやハル国務長官も一度は妥協に傾くのだが、しかし、突然、日本軍の中国やベトナムからの全面撤退を要求するハル・ノートを送ってきた。日本側は最後通牒と受け取り交渉は決裂した。
 アメリカ側の妥協論は統帥部からのものでドイツが先だから、日本との両面作戦は困るというものであった。しかし、これがひっくり返されたのは、国民政府蒋介石とイギリスのチャーチルの強硬意見であったという。特に、中国側はワシントンで猛烈なロビー活動を行っていたとのことである。」p64-75
・・・なんだか、今の話のようだ。

 山本五十六愚将論について
 「彼は、海軍省の次官時代に日独伊三国同盟に反対し、陸軍側と抗争していた。連合艦隊長官として、近衛に日米戦の見通しを聞かれ、一、二年は何とか暴れて見せるが、その後は自信がないと答えた話は、当時有名であった・・・。もしそれが本心なら、海軍軍令部総長、海軍大臣、さらに近衛首相、東条首相に断固反戦論を唱えるべきであった。全海軍を握っていて、しかも海軍の統帥権は陸軍からも首相からも独立しているのである。」p148-149
・・・矢次の言は説得力がある。結局、しばらくの間なら、せっかく立てた作戦をやってみたい・・・ということだったか?

 結局、大戦略もなく、少しずつ戦争を拡大していったのは、軍政と統帥の連携がなかったから、統帥が軍政を引っ張って行ったから。それを始めたのは関東軍参謀石原莞爾だった。満洲事変を起こして、手際良く満州を占領して、それを政府に承認させたのである。地方軍の一中佐が政府を動かしてしまった。その後、石原は東京の参謀本部に栄転するのだが、関東軍の方は満州を出て支那事変を起こしてしまった。石原は止めようとしたのだが、後輩の関東軍参謀に、石原さんのまねをしているだけだと言われてしまった。統帥もそれぞれ中央以外に関東軍のものも独立していたのだ。統帥権の泥沼と言うべきか。
 本来なら、軍政で、つまり大臣が責任者で、最終責任者が首相であるべきだった。もちろん、今はそうなっている。
アメリカも、ベトナムの泥沼にはまり込んだが、ニクソン大統領の中国訪問などによって外堀を埋めて和平にこぎつけている。昭和戦前期の日本の場合、統一した意思がなかった。
 ただ、この時、ウィキによれば中国はこのどさくさを利用して、南ベトナム領の西沙諸島を占領、実効支配して、今日のベトナムとの対立の種を作っている。

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