執事のスチーブンス(アンソニー・ホプキンス)とメイド頭のミス・ケントン(エマ・トンプソン)
ジェームズ・アイボリー監督「日の名残り」1993(原作カズオ・イシグロ1989)は、イギリス貴族の執事(バトラー)とメイド頭を主人公として、国家と個人の威厳dignityを描いたものと思われる。
小説を読んだのは評判となった発売当初だから記憶もあいまいなのだが、映画に違和感なく、ほぼ原作に忠実であるように思う。
外交官(外務大臣)であり対独宥和を主張する貴族の大邸宅での二回の秘密の対独宥和交渉をめぐって、反対派であるアメリカやフランス外交官、それに貴族の名付け子でもある新聞記者たちの妨害工作が行われるのであるが、それはむしろ背景であって、主役はその会議の裏方である執事たちである。
執事の威厳とは何か、年取った執事に言わせると、邸宅での会議中に食堂に虎がいた。その時静かに主人に銃の使用許可を得て虎を撃ち殺した。会議は何事もなかったかのように進行していく、・・・というようなことなのだそうである。
スチーブンスとミス・ケントンは運営を巡っての意見の対立もあるが、車の両輪のように主人の行動を支えていく。ヒトラーに反対する使用人は主人を非難して辞めていくのだが、スチーブンスは執事としての分限を守っている。
二人は、互いに理解し好意を持っているのだが、仕事に集中して振り向いてくれないスチーブンスをあきらめ、ミス・ケントンは結婚して屋敷を去っていく。
それから20年後、再会した二人は夕焼けのなかを歩いていく。日の名残りのある時が一番美しいのだと。別れるときにはげしく雨が降り出す。まあ、常識的な心象の描き方ではあるが。
かっての貴族の主人は失敗した対独宥和政治家として失脚し、失意の中で屋敷も手放していて、今は、アメリカからきた主人に代わっている。スチーブンスの関心は、どうすれば新しい主人の裏方になれるかということであった。
ところで、どうしてカズオ・イシグロは、対独宥和主義者を背景にもってきたのだろうか。どうもこの貴族と言うのがチェンバレン内閣の外相(名前は忘れた)で、ヒトラ−側近でドイツ外相リッペントロップに馬鹿扱いされていたらしい人なのだ。
たとえどのような会議であろうとも、一つのきずなく堂々と進行させて国家の威厳を示す。これが執事の役割だとの覚悟なのである。
本来は、貴族外交官が主役で、それを補佐する執事が脇役のはずだが、作者はこれを逆転させ、しかも、思い出したくないあろうチェンバレン内閣をもってきた。出自が日本人であることで、この状況が見えたのであろう。
旧日本軍で一番優秀であったのは下士官・兵であったそうだが、その伝統は今も変わらず、福島原発事故で活躍したのは現場の技術者と建設工事会社の社員や下請けであり、そして略奪暴動なく粛々と行動した住民、迷走したのは東京の官邸や本社であった。しかし、日本のみならずや、イギリスの執事を見よと。彼らの誇りが失われた時には国家が滅びるときなのである。
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