mixiユーザー(id:34218852)

2011年06月09日17:39

50 view

小説の中の謎(84)  待ち人きたらず

 サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」白水社1990(1952、初演1953)は、学生のころ、その評判を知って、手に取ったと思うが、詳しい内容については記憶が定かではなかった。今回、あらためて読んでみたが、読んだしりから記憶が落ちていく。記憶に残らないように、わざとセリフなども陳腐なものにしているに違いない。
 ストーリーは、中年以上老人までの二人の人物が、ゴドーなる正体不明の人物を待ちながらの会話、というに尽きる。二幕ものであるが、その間に特に変化があるわけではない。ただ、二人が毎日ゴドーを待つためにやってくる、ということを示唆するため二幕である。
 この二人は、半分ぼけているようで、ここが昨日と同じ場所なのかどうかも定かではないのである。また、ゴドーがどういう人物なのかもわかっていないし、政治家なのか宗教家なのか、何もわかっていない。会話もしぐさも意味のあるものはない。したがって、読むほうも、なぜ、何を待っているのかさっぱりわからないのである。
 このゴドーとは、ゴッドだという説と、フランス大統領になったドゴール将軍のもじりだという説があったとおもう。訳者の高橋康也も、解説でゴッド説を紹介していた。
 しかし、神にせよ政治家にせよ、待つとしたら積極的態度が必要だろう。政治家であれば、その政策の実現に利害があるわけで、積極的に協力する姿勢、態度が必要である。神であっても同様であり、神の国実現のために、身命を捧げなければならない。ところが、この二人には、微塵もその気配がないのである。ただ、とりとめもない会話を交わしながら時間を潰しているだけなのだ。この、二幕、二時間の戯曲の内容は、いかに時間をつぶすかということを演じて見せたものに違いない。
 訳者解説では、神の死のあとの神もどきを待っているのだ、という説もあるとしているが、神もどきであっても、オウム真理教のように命がけであることには変わりはないのである。この戯曲には、そのような深刻さはない。
 訳者解説では、ハムレットに対抗する問題作としているが、「生きるべきか、死ぬべきか to be or not to be」の中吊り状態の苦しみは感じられない。
 この状況に一番似ているのは、ゴーリキー「どん底」である。この登場人物たちは、落ちぶれたり、うまくいかなかったりで、木賃宿のようなところに吹き寄せられて、日雇いや売春で暮らしている。その経歴が示すように、それぞれ個性的であり、見果てぬ夢を追っていた。しかし、ベケットはその個性も消してしまっている。ただ一切の積極的な意欲がない、待っている意味もわかっていない人物を造形したのである。
 これでは、笑う哲学者、土屋教授のセリフ「これでは、私そっくりではないか」を、思い出してしまう。本当に、私そっくりである。
 で、終わるのもくやしいので、原題「en attendant godot」を辞書でひいてみた。attendantは、前置詞で 「・・・まで」の意味らしい。例文に、「よりよいことが起こるまで en attendant mieux」があげてあった。だとすれば、最初から積極的な意味では、待っていないのではなかろうか。何かわからないが、よいことがあるかもしれない、と思って生きているのである。やはり、私そのものであった。
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2011年06月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930