ゲーテの戯曲「ファウスト」では、主人公のファウスト博士は悪魔メフィストフェレスと契約して悪魔の力を得る。ファウストは万能の天才学者であるが、生涯の研究の成果にむなしさを覚え、自殺を図ろうとする。そこに現れたメフィストは、人生は緑である、研究室から街に出よと誘惑する。ファウストは、その提案にのり、この世を美しいと認めれば地獄に落ちると契約して、魔力を得て若返る。
街へ出たファウストは、グレートヘンと恋をするが、それにもむなしくなり恋人を捨てる。絶望したグレートヘンはファウストとの子を殺し、処刑される、という悲劇へと続いていく。
さて、問題は、この世を美しいと認めれば地獄に落ちるのか、ということである。この世を作ったのは神ではないか、この世を美しいと感じることは神をたたえることになる。「時は春・・・かたつむり名乗り出で、神天にしろしめす」である。
いやそうではない。大元を作ったのは神であるが、その上に街を作ったのは人間である。この街は、ソドムのような罪の街かもしれないではないか。
いやいや、そもそもファウストは、この世を知りつくそうとして研究に打ち込んできたのであるが、老年にさしかかり、結局、何も分かっていないことに気がついたのである。神のわざを知りつくそうとするのは、バベルの塔の寓話にあるように、増長・僭越の罪ではないか。
この戯曲の結末は、その後、芸術や政治に生きたファウストが、この世を美しいと認め地獄に落ちようとするところを、永遠に女性なるものグレートヘンに救われて、天に迎えられるハッピーエンドである。
ゲーテは何が言いたいのか。研究において、実行において、この世を極めつくそうとすることは正しいし、なすべきことだ。しかし、それはこの世の大元を作った神のわざを信じたうえでのことだと。
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