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2020年06月23日21:03

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歴史の物語(19) 瀬川拓郎「縄文の思想」講談社現代新書2017

 著者は1958年生、岡山大学史学科卒、考古学者、アイヌ研究者。旭川市博物館館長。

1枚目 日本海の海流
2枚目 装飾古墳のモチーフ 北海道のフゴッペ洞窟と共通している。このような船で日本海岸を九州から北海道まで航海していたのだろう。
3枚目 古代・中世の出雲大社

 序章 縄文はなぜ・どのように生き残ったのか
 本書は、日本列島周縁の海民、アイヌ、南島の人々が、縄文の習俗や世界観・他界観をとどめてきたことを明らかにし、かれらの共通する生き方の中に縄文の思想を探ろうとするものである。

 縄文文化とは1万5千年まえから、沖縄から北海道にかけて展開した狩猟・漁労・採集の文化である。その担い手は、現生人類の中でも古層の遺伝子的・形質的特徴を持つ、アジア人の共通祖先と考えられている縄文人。
 一方、紀元前10世紀後半になると、水稲稲作の文化が伝わり九州北部で弥生文化が成立し、時間が経るにしたがって東へ拡大するが、北海道と南島では弥生文化を受容しなかった。
 弥生文化が縄文文化を駆逐したのではなく、縄文人が弥生文化を受容していったので、石器や釣り針などの骨角器だけでなく、土偶など祭祀用具や観念世界も紀元前後まで残存していた。
 しかし北海道と南島、それに海辺の人々は弥生文化を受容しなかったが、それでも各地の漁労は大きく変化した。外洋での大型魚やアワビの大量採取など、高度の技術が発達したのである。これらの担い手を海民と呼ぶことにする。
 海民(縄文人の一部で、縄文文化を守った人々)は漁労だけでなく、ウマ、ウシの飼育、玉や塩の生産、海上交通の、それも遠隔地交流の担い手となった。
 
 第一章 海民と縄文 弥生化のなかの縄文
 アイヌ語は縄文語である。アイヌ語地名は九州にも濃厚に残存している。
 人類学者の斎藤成也によれば、現代の島根県と東北地方の住民との間には遺伝子的な共通性がみられる。言語学者の浅井亨は東北北部方言(ズーズー弁)と出雲方言は極めて近縁であり、海上交通による移住が原因だとする。さらに、出雲の他にも、石川県、富山県、新潟県の沿岸部でも見られるとして、小泉保はかっての日本海沿岸は北の津軽から西の出雲に至るまで東北弁だったのでないかとしている。
 ★海風注:つまり松本清張「砂の器」の謎解きであるが、確か映画に登場する言語学者は、刑事の質問に対して、似てはいるが出雲弁はズーズー弁ではないと断言していた。しかし、今では言語学者も同種の方言だとしているようである。

 第二章 海民とアイヌ 日本列島の縄文ネットワーク
 北海道と本州の間の津軽海峡は、南北の生態系を隔てるブラキストン線が存在する。一方、サハリンと北海道の間の宗谷海峡は明確な生態系の違いはない。どちらも北方系なのである。しかし、石器時代においては、サハリンと北海道の間に交流はなく、北海道と本州の間には、活発な交流・交易があった。南からは鉄器、コメ、南島産貝輪など、北からは陸獣や海獣の毛皮が持ち込まれた。それを可能にしたのは、対馬海流で、北海道の西側をぐるっと回っているのである。

 この活発な交流には、九州などからの海民の移住や季節的出稼ぎが動力になっている。
 北からは、オホーツク人は4世紀ごろ、サハリンから利尻島、礼文島など北海道北端へ南下し、さらに道東側や千島列島を占拠して、7世紀にはアイヌ人と北海道を二分した。
礼文島のオホーツク人遺跡から、鹿角製刀剣装具が発見された。これは古墳時代5世紀の西日本の沢山の遺跡で発見されるもの。
 これを製作していた遺跡(制作途中のものが発見)は福井県や大阪府にある。そして海民、渡来人、狩猟採集民など、王権や農耕社会の周縁的な人々の墓地から発見されている。
 オホーツク人は南から来た海民と交易をおこなっていたのである。
 奥尻島には砂浜で石で囲った奇妙な墓(多くは火葬された遺骨)が発見されているが、ここから新潟県の翡翠も発見されている。この墓地をオホーツク人のものとする説があるが、似た墓が紀伊半島にあることから著者は海民のものと考えている。
 フゴッペ洞窟の人物彫刻など大陸起源と考えられているが、そのモチーフは熊本県の装飾古墳のものと一致している。海民の描いたものと考えるべきである。

 海民の一派に安曇氏がいる。長野県安曇野市に安曇氏の祖先神の海神ホタカノミコトを祀る穂高神社があり、その神官であった犬養氏は安曇犬養連の後裔。
 ★海風注:なぜ、海民の安曇氏が山の中の盆地にいたのかと不審であるが、もともと山と海を行き来する人々だったらしいので納得した。
 神話に海幸彦や山幸彦がいて、またご馳走を「海の幸・山の幸」と今でもいうが、平野の幸とか稲田の幸とは言わない。縄文の言葉が、また縄文の収穫の喜びが今も生きている現われに違いない。
 
 第三章 神話と伝説 残存する縄文の世界観
 縄文人の世界は海と山だったのだろう。「川をのぼるワニ」の伝承が肥前風土記や出雲風土記にある。ワニは日本にいないが、シュモクザメ、シャチなど海の神の総称をワニと呼んだのである。
 また、全国各地の海民は、ワニ、シュモクザメ、シャチ、ジンベイザメやクジラなどを併せて豊漁の海の神としてエビスと呼ぶ。彼らの多くは、身を守るために集まったカツオやマグロなどを従えてくるのである。

 アイヌ人にも、沖の神シャチは山の神の娘に会うために川を上って山へ行くという伝承がある。
 その山の神が海の神を追い返すというヴァージョンもあるのだが、それは、すでに死んでいる場合で、まだ生きていろと追い返すのである。
 ★海風注:死んだイザナミを慕ってイザナギが訪ねて大騒動になるのだが、まだ来るなとの心だったのだろう。

 出羽三山の修験道にも同種の伝承がある。
 甲賀三郎の伝承では、天狗にさらわれた妻を求めて地底の国々を回り、大蛇の姿となって妻にあって、共に諏訪明神に祀られたとのことである。
 近江には伊香郡安曇郷がある。
 ★海風注:正式な諏訪大社の神は、大国主の子の建御名方神であるが、古い伝承では蛇だったとするものがあるとのこと。三輪の大神神社の神も蛇の姿だったので、本来はどちらも縄文の神だったのであろう。奈良盆地も内陸なのだが、大阪湾から川をさかのぼれば奈良盆地になる。安曇野の場合は、姫川は途中まで、流路は長いが信濃川や太平洋側になるが天竜川もある。

 第四章 縄文の思想 農耕民化・商品経済・国家の中の縄文
スサノオは縄文の神。弥生の神(水田と織機を持つ)のアマテラスとは姉弟ではあるが仲は悪い。
 季節を定めて海からやってきた神が、山を模したような高層の神殿(出雲大社)の神の元へ往還する。 

 ★海風:まとめ
 稲作を持ち込んだ弥生人がどれだけいたのか、あまり多くなく、むしろ縄文人が稲作を学んで普及していったという説がある。
 本書ではかなりの数との説に立っているようだが、それでも戦いにはならず、平和的に融合していったとの説に立っている。
 ただし縄文人の生活様式を守った人々もいたというのが本書の主張である。その中心的担い手が海民であった。稲作民に対して海民という用語を使ったのは網野善彦のようで、本書の著者も網野の影響を受けていると言っているが、本書の独自性は海民を縄文人の弥生時代に適応した進化形とみていることである。 

 今日に続く日本史は室町時代から、という定説がある。日本の伝統文化はたいてい室町時代からなのである。少なくとも文献に現れるのは。
 平安時代は唐の文化であり、万葉集を継承した勅撰和歌集などの宮廷文化時代だった。

 一方では、真言宗と天台宗の密教が宗教界を支配した。特にお大師信仰は広く庶民にいきわたることになったが、密教にはどういうわけか知らないのだが、修験道がつきものである。中国に修験道は無いし、中国密教と仙人の活躍する道教との関係も利かない。
 日本密教に独自のものなのだろうが、空海と関係があるのだろうか。本書では、出羽三山の修験道と海民の安曇氏との関係が指摘されている。

 岡本太郎は縄文土器の美を再発見し、大阪万博エントランスのモニュメントを作った。
 梅原猛は、自身を母方の縄文と父方の弥生の双方の血を引いているとしていた。また宮沢賢治の詩に縄文の感性を感じるとも。
 梅原猛には、「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」集英社文庫1994(佼成出版社1983)の著書がある。そのなかで、弥生時代は「縄魂弥才」の時代だったと述べている。
 その縄文文化は東北で完成した。蝦夷は縄文人であり、北海道の一角に残ったのはアイヌである。アイヌ文化に縄文文化が残っているのではないかと梅原は言う。

 東北にはマタギがいたのだが、マタギの伝承では、日光山の万次万三郎(天智天皇17代の子孫)は、清和天皇の時代に、日光山権現と上野のムカデに化けた赤城明神が争った時大ムカデを退治した恩賞として日本のどの山でも自由に立ち入る許しを得たとされている。
 似た伝承では、ろくろを使って椀や盆をつくる木地師は、清和天皇の兄惟喬親王からその技術を教えられ、東近江の小椋谷の大皇器地祖(おおきみきじそ)神社の許可証をもらって奥山へ出入りするとのこと。
 本書の著者瀬川は飛騨の匠も海民だとする。木工や彫刻、建築技術は縄文文化から受け継がれたものに違いない。
 私海風としては東照宮の過剰な色彩と彫刻には違和感があるのだが、梅原猛に従えば縄文文化のディオニュソスの美学なのだろうと思える。

 天皇家との関係で言えば、律令制度や公地公民は稲作民を対象にしている。この稲作を基盤とした支配制度が江戸時代にまで続くわけだが、網野善彦「異形の王権」では、後醍醐天皇は本書で言う海民を取り込んでいる。
 つまり朝廷や幕府の基盤は稲作民だが、天皇家としては海民との関係を保ち保護しているのである。

 以上、なかなかまとまらないのだが、岡本太郎は縄文の美学を特定したわけだが、縄文文化自体は脈々と現代にまで継承されたのだと思う。瀬川の本書と梅原の著書は縄文の美学が現代に続くことを指摘していくが、ただ生き残ったというのではなく、日本文化の半分を受け持っていたのだと思う。今後も注目していきたい。

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