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2015年06月29日16:21

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時代を越えて(63) 松本健一「三島由紀夫の二・二六事件」

 1枚目 出口王仁三郎・すみこ(二代教主)夫妻
 2枚目 シナで生まれていたら天子になれたと言っていた北一輝
 3枚目 斎藤劉・史 父娘 いずれもネットから
 

 松本健一「三島由紀夫の二・二六事件」文春文庫2005 を読んだ。著者は「評伝 北一輝」や「昭和天皇伝説 たった一人のたたかい」などで書き残したことを補足したいとする。昭和天皇がよく知っていて、しかも触れたくない人物が3人いて、北一輝、出口王仁三郎、三島由紀夫だそうである。本書は、その三人それぞれの関係、さらに昭和天皇との関係を解明したものである。

 北一輝の天皇観であるが、「国体論及び純正社会主義」のなかに「・・・不敬漢 の一語は実に東洋の土人部落に於ける社会的死刑の宣告なり」とあるように、北は明治国体イデオロギーのもとにある日本を「東洋の土人部落」、天皇を「土偶」と呼んでいた。
 三島はこれで北を嫌ったが、著者は明治維新による民主主義を信じた故に、天皇を神聖化するイデオローグを批判したものだとしている。そして、「日本改造法案大綱」の内容は、戦争放棄条項を除いて戦後憲法とそっくりだという。天皇を機関と位置づけていたことも昭和天皇と一致している。しかし、二・二六事件の黒幕とされたし、本人もそれを受け入れた故に、昭和天皇と不倶戴天の敵となったようである。

 三島由紀夫は二・二六事件のとき11歳の少年だったが、15歳の時「凶ごと」と題する詩を書き「わたくしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待った、/凶変のだう悪な砂塵が/・・・むかうからおしよせてくるのを。」三島は小学生の時から事件に参加したかったらしいのである。
 三島については1970年に自衛隊に突入して総監を人質にとってクーデターを促したが、隊員たちから拒否されて切腹自殺したことはよく知られている。

 出口王仁三郎は、出口なおを教主として大本教を立ち上げた人物である。なおは、艮(うしとら)に閉じ込められた金神(あまてらすと対立したスサノオ、あるいは上位神の国常立)を解放して世直しをするとして、なおに神がかりした金神の言葉を語り、それを娘婿の王仁三郎が筆記して、大本教の教典とした。
 したがって、不敬であると判定されやすいうえに、黒龍会などの政治団体と交流を深め昭和10年(二・二六事件の前年)に大弾圧を受けてほとんど組織的に壊滅した。戦後復興したが往時の勢いは衰えて、代わりに大本教から分裂した成長の家、世界救世教などが興隆している。
北一輝は、神がかりの方法を大本教から学んだが、しかし、北を崇拝する青年将校たちを弾圧されそうな大本教に巻き込むのを恐れて離れたようである。

・・・さて、北、三島、出口の共通点であるが、神がかりによる託宣を重視していたことではないだろうか。北の場合については、二・二六事件のころ、北の妻すずが神がかりして話す言葉を北が霊告日記として文章に直したという。出口なおと王仁三郎との関係と同じで構造である。
 三島の場合は、「英霊の聲」の内容が二・二六事件の青年将校と特攻隊として戦死した隊員の霊の告げる言葉であった。

 対して、昭和天皇であるがイギリス仕込みの議会の子と言ってよいくらいであり、天皇記機関説を墨守し、生物学者として合理的思想の持ち主であった。もちろん、先祖神アマテラスに祈る神官でもあるが、間違っても神がかりそうにない。多分、ここの3人とは思想上や政治的立場以上に、肉体的嫌悪感を抱いていたのではなかろうか。

 著者は、もし昭和天皇がタイの国王がクーデターを認めたように、二・二六事件を当初の軍上層部の大勢(断固討伐派は石原莞爾作戦課長など少数)のように黙認していたらどうなっていただろうか、と歴史のイフに思いをはせている。しかし、思うにそれは絶対なかっただろう。そもそも、タイに戦後たびたびあったクーデターは、国軍トップによる無血クーデターである。議会がこう着した時にのみ政治家にとって代わったのである。戦前日本の場合は、統帥権干犯を盾にとって議会を麻痺させ、天皇を当惑させていた当事者でもあった。
 結局、天皇の強い意志を背景として反乱の鎮圧に動き出した時、青年将校たちは自決するから天皇の勅使をよこすように提案してきたという。昭和天皇はますます怒って、股肱の臣を殺しておいて何を言うか、死にたければ勝手に死ねと吐き捨てたという。

 近衛首相は東条首相と交代してからも天皇の側近には違いなかった。戦況が思わしくなくなって来た時に、近衛は天皇に真崎甚三郎など二・二六事件の責任で引退させられた皇道派の将軍を呼び戻してはどうかと提案して天皇の不興をかったという。どうも近衛は読み損ねてばかりいたようである。

 この著書は、1975年に来日したエリザベス女王と昭和天皇の会見で終わっているが、その会見の通訳官は真崎秀樹、つまり真崎甚三郎の子息だったという。多分これは皇道派将軍たちとの和解だったのだろう。
 それでは、死刑になった青年将校たちとはどうか。平成9年(1997)の歌会始で、歌人の斎藤史は召人(めしうど)に推薦されていた。史は皇道派将軍斎藤劉の娘で、なおかつ処刑された青年将校とは幼馴染であった。事件を受けて「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」などの歌を詠んでいる。
 史にとって昭和天皇はもちろん天皇家自体が許すことのできない敵だったのだが、仲間の歌人たちからたびたび受けるように促され、とうとう、青年将校の霊にどうすべきか尋ねることとした。現れた霊たちは和解を勧めた。歌会始の当日、史のもとに集まった霊たちは、一緒に皇居に入った。そして、歌会始が終わって退出したときには霊たちはすべていなくなっていたという。

 結局、一国の国民とは、一時敵と味方に分かれても、いずれは和解しなければならない。もしできなければ、いずれは分解するのだろう。まさに「末は泥土か夜明けか知らぬ」状態になる。「天皇は日本国および日本国民統合の象徴」とするのは、国民間の和解の触媒作用を期待してのことであり、これが天皇の存在理由に違いない。すでに明治天皇も徳川慶喜と和解の儀式を行っていたし、そもそも政治犯であった怨霊を祀るのも、怨霊によるたたりとしての疫病災害を恐れるというだけでなく、傷の入った統合を癒すためだったのだと思われる。

 それにしても、私にはなぜ二・二六事件が起こされたのかいまだに分からないのである。

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