雨は暗いうちはまだ降っていたが明るくなってやんだ。空気がひんやりしている。
昨日は東京へ出た。年に一度くらいしか行くことはないのだが、谷中で墓参りをして、御徒町へ出ると外人さんたちがぞろぞろ歩いているのに驚いた。何か見るものがあるのだろうか。円安で買い物をしているのか? 昼食に肉の大山でステーキを食べた。
谷中墓地には猫が住み着いている。写真のは花屋さんの飼い猫だが。
★葉桜や谷中の墓地は猫の街
並木は葉桜だったが、鬱金の桜だけは咲いていた。3枚目の写真はあおきの花。あまりにも目立たない。★葉の陰へ陰へとあおきの花の群れ
俳人の森澄雄が生きていた頃、入選する俳句に地名が付いているので、地名を付ければ取ってくれるのかと、地名俳句を投稿していたことがある。もちろんそんな甘いものではなく、全滅にちかかったが、いくつか入選した。
★菜の花や幅を余さぬ筑後川・・・久留米に出張した時。
★牡蠣あげて七尾の海の深雪晴れ・・・ニュース写真から。市中の巻の凡兆「能登の七尾の冬は住み憂き」をふまえている。
林徹撰で★鈴鹿峰や照りては曇る竹の秋(春の季語)・・・三重県にいた時。
で、思うにこれは歌枕だった。名所・旧跡を詠むものとあるが、それだけのものではないに違いなかった。
もともとは、一帯の支配者が山に登って領地の国褒めをすることで、豊作や安寧を願うものではなかったのか。
それが、大和王権が全国に広がる時に、歌人を派遣して地名を詠み込んだ歌を作らせたのではなかろうか。柿本人麻呂や山部赤人の「田子の浦ゆ打ち出でてみればま白にぞ富士の高峯に雪は降りけり」など。
万葉集もそのためのものだったような気がする。万葉集の2番歌は舒明天皇「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば・・・」で、ここから額田王や人麻呂の歌が始まっている。ところがややこしいことに、1番歌は雄略天皇の求婚・求愛の歌で、200年も前なのだ? 「・・・告らめ 家をも名をも」だから、編集者の家持は、天皇の求愛の歌を借りて歌作りのすすめとして、最初に置いたのでなかろうか。
ログインしてコメントを確認・投稿する