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2013年02月03日12:20

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ファンタジーの往還(19) ブラフマンの埋葬

 小川洋子「ブラフマンの埋葬」講談社文庫2007(単行書2004) は、泉鏡花賞受賞作で、死と生が溶け込む、静かであるが激しさを秘めた世界を描いている。
 ストーリーは、芸術家村の管理人(ぼく)を語り手として、彼が保護したビーバーに似た動物(ブラフマン)を育ててゆく観察記録を主軸として、管理人としての日常、特に親しい墓石などの碑文彫刻師、雑貨屋の小町娘との付き合いが描かれている。時間は、赤ん坊のブラフマンを保護した夏の初めから、運転を教えていた小町娘が引き殺してしまい、彼を埋葬する秋の始まりまで、場所は解説の奥泉光によれば南仏らしい。ここに吹いている強風はミストラルのようである。

 管理人の「ぼく」は芸術家たちの駅からの送迎から雑用までの一切の面倒をみるのだが、土曜日に小町娘が駅で男を待っていることに気づく。彼等は近くの古代墓地の遺跡で逢引きをしているのである。「ぼく」の心理は描かれることはないのだが、ある時ブラフマンを連れて古代墓地の洞穴、二人の逢引の場所にはいり、男の体液のにおいをかいだりする。田山花袋「蒲団」のように。花袋も女弟子とは何もなかったそうであるが、ここでも「ぼく」と小町娘とは「ぼく」が運転を教える以外何もないのである。
 あくまでも、静謐、心中をあらわすのは激しいミストラルか。

 ここにある古代墓地とは、古代の村まで石を運ぶより、棺に入れた遺体を
川に流して、石のあるところへ運んだ方が効率的だとして選ばれた岩山である。石工や碑文彫刻師が川のほとりで待っていて、引き上げるのだが、当然たくさんの棺が海へと流されてしまったらしいとのことである。・・・これは作者の想像のように思えるのだが。
 そして、石棺や墓石は今では荒れ果てて山の中腹に散乱しているという。確か安岡章太郎「流魂譚」だったと思うが、安岡の郷里の山の斜面にある先祖の墓地がなだれのように崩れている光景が描かれていた。

 もの静かと思われた小町娘は、「ぼく」が話しかけてみると、意外にもちゃっかり娘であった。動物アレルギーを主張してブラフマンを飼う「ぼく」に抗議するおばあさんの刺繍作家も登場するが、本当に物静かな碑文彫刻師と対称的で、ひょっとして作者は女嫌いかと思ってしまった。

 ということで、ここには何かある時以外は何もない人生が描かれていると思う。実際、私も今日は何もない。外は風があるが快晴で、懐に入った猫がセーターをひっかいているだけの節分である。春は名のみの風の冷たさ・・・。

 小川洋子のものは「博士の愛した数式」だけで、これは映画でも見た。マイミクさんからも「最果てアーケード」の紹介があったが、今「ブラフマンの埋葬」を読んで、これはファンタジーだと思った次第である。考えてみれば、「博士」もそうだった。現実と超現実というような露骨な対比ではないが、見える世界とその裏にある永遠性が同時にとらえられているように思える。となれば、これは宮澤賢治の世界ではなかろうか。賢治は現実とまだ途上にある浄土世界の両方を見ようとしていたのである。これが法華経の世界であり、宗教作家たるゆえんでもあった。
 
 賢治は突然出現して流星のように消えたと思われているかもしれないが、
決してそんなはずはない。私は小川洋子に賢治の遠い反映の一端をみたような気がした。賢治はただ文壇から孤立していただけだろう。しかし、それは大きなことで、文学史を見ても賢治の位置づけに誰もが困っているようだ。ドナルド・キーンのものも短い記述だったが、「妹の死の打撃から一生回復しなかった」と評されていたが正解だと思った。

 小川洋子から離れてしまったが、現代の小説にはファンタジーの底流があるような気がするし、その水脈の源流に賢治がいるような気がするのである。
 
 節分や少女の磨く壁光る・・・犬の散歩道での光景

 
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