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2012年09月28日13:55

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ファンタジーの往還(13)  動物キャラクターの擬人化

 斉藤惇夫「冒険者たちーガンバと15ひきの仲間」岩波少年文庫1990(アリス館新牧社1972)は、地下の食糧庫をねぐらにしてのんびり暮らしていたドブネズミのガンバとマンプクが、港のネズミ集会に出かけ、島から助けを求めにやってきたネズミ忠太とともに島に渡るという、「七人の侍」みたいな物語である。
 島のネズミは海を渡って来たいたちに次々と殺され、今や絶滅寸前であった。ガンバは一緒に助けに行こうと呼びかけるのだが、いたちにかなうわけがないと言って皆立ち去ってしまう。しかし、どういうわけか島へ行く船には12匹が乗り込んでいた。
 島へついて生き残りを探すのだが、隠れていた忠太の仲間は、このままじっと隠れていたいと言って戦おうとしない。むしろ、ガンバたちのおかげで危険なことになると心配するのである。
 忠太の親たちの隠れ家を探す途中で、オオミズナギドリの集団と出会う。かれらはいたちに雌を殺され卵もくわれて強い恨みを持っていた。
 忠太の親たちも無事で、全員が穴に立てこもるのだが、いたちのリーダーのノロイは食べもものを用意して和解を提案する。もちろん油断させるためなのだが籠城が長くなるといたちを信じようとする者たちも現れる。
 島の隣に小さい無人島があるのだが、ガンバは干潮を見てそこに渡ることにする。一方では、オオミズナギドリに加勢をたのむ。海の中でいたちに襲われたネズミたちのもとへ背中に乗ったガンバの案内でオオミズナギドリの群れがいたちに襲いかかる。

 以上がストーリーであるが、どうにもこうにも動物の行動様式に注意がはらわれている気配がない。鳥の背にネズミが乗るのはいいが、その苦労が描かれていない。カーボーイのように立ち上がって指揮している。街の穴倉から港へ行くのはいいが、初めての道とのことで、その行程のでの苦労がない。港のネズミ集会では、皆、コップで酒を飲むのであるが、ネズミ用のコップをどうやって集めたのだろう。「床下の小人たち」ではそれがモチーフになっているのだが。
 さらに、いたちがどうやって島に渡ってきたのか。人間が放したのか。ネズミと違っていたちは自分では船に乗れないはず。

 ということで、これは擬人化が過ぎているというか、ネズミやいたちの行動様式が全く無視されているのである。アダムズ「ウォーターシップ・ダウンのウサギたち」1972 は、ほとんど同時期であるが、こちらはシートンの正統後継者らしくウサギの生態に忠実であった。

 松浦寿輝「川の光」読売新聞連載2006.9-2007.4 も、ネズミの親子が新天地を求めて川の上流に移動する冒険を描いたものだが、できるかぎりネズミの行動様式に忠実だったと思う。途中、猫に出会ってもう駄目だと観念するのだが、意外なことにその猫は自分のえさを食べさせてくれる。ありえないことではあるが、しかし今時の飼い猫はネズミをおもちゃにしても食べることはない。いつももらう餌にも好き嫌いがある。この猫は歳をとっているという設定なので遊ぶことにも飽きているらしい。ということで、こういうことがあってもよいと思わせる工夫がしてあるのである。
 今、連載中の続編の場合、ネズミは犬に乗るが、その時は首輪をつかむ。タカに連れられるときはつめやくちばしにひっかけられている。むろんネズミは絶対嫌なのだが(それで食べられるわけだから)、やむを得ない成り行きで、あり得るような描写なのである。

 それにひきかえ、斉藤惇夫はほとんど生態や行動様式に関心がないようだ。ガンバ三部作はそれぞれ受賞しているようだが、それでいいのかと思ってしまう。確かに冒険の連続ではあるが、強引だし、結局は「七人の侍」のネズミ版にすぎないと思うのだが。
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