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2012年06月07日09:02

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時代の中で(36)  ヴィジョンをもつ動物

 長い間積読していた吉本隆明をとうとう通読した。「改訂新版 共同幻想論」角川文庫(河出書房新社1968) である。ここには、国家のアウフヘーベン(揚棄)とまではいかなくても、その出自・根拠を示すことで限界づけようとする強い意志が感じられた。マルクス主義の理論では、国家(生産関係)は生産力(下部構造)の発達によって必要とされ、社会主義革命が達成され、一層の生産力の増大を待って国家が揚棄されることになっているが、吉本に場合は、観念の作りだした幻想(上部構造)からの国家の誕生を明らかにしようとしたものである。そのために資料として、柳田国男「遠野物語」と「古事記」の伝承が利用されている。
 この本には、大きく言って二つのモチーフがあるように感じられた。一つは、今(第二次大戦と、その敗戦後)、個人の自由を束縛していると感じられた国家出生の秘密を明らかにし、日本人からその呪縛をのぞこうとすることである。1981年の角川文庫版序には、「・・・国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない」と述べられているように、古代からの習俗が伝承を介して分析されている。これはマルクス主義の国家廃絶史観を補おうとするものであろう。
 もう一つは、序を「・・・この本は子供たちが感受する異空間の世界についての大人の論理の書であるかもしれない」と述べて締めくくっているように、人間の共同行動をイノセンスな原型から組み立てようとしていることである。私個人にはこの第二の問題意識が重要だと思われる。二十一世紀の今、国家間より部族間戦争が目立ってきた時代において、共同行動の根拠となったヴィジョンを再発見する必要があると思える。
 ここで引っかかるのであるが、吉本は「共同幻想」とのタームで解析しているのであるが、これは明らかにネガティブな価値付けなのである。人間のもつ幻想には「個人幻想」、家族の「対幻想」があって、それが逆立ちしたものが集団の「共同幻想」だというのであるから。人間の本然の姿である個人や家族のつくる幻想はポジティブだといいたいのだろう(この辺をはっきりさせるのは、「言語にとって美とは何か」などを読んでからだが)。
 今、はっきりと思い出せないが、昔読んだ「現代の神話」などと銘打った本では、神話というものを(この書の場合は資本主義が)人間を支配するために作ったものとしていた。しかし、ユング派心理学では、神話や伝承を、さらに夢の解析を人間行動の重要な解析手段としている。そのとき、これらのものは、あるかないか分からない「幻想」ではなく、イメージやヴィジョンととらえていると思う。人間行動に対しては、むろん、マイナスにもプラスにも作用するとしている。
 吉本は河出書房新社版の序では、「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることを知りながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだす・・・共同幻想もまたこの種の負担のひとつである」とのべて、本文の各論にはいってゆく。長くなってくたびれたので、項を改める。
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