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2012年05月05日09:41

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ファンタジーの往還(4)  「教」も「行」も失ったが「信」がある。これが「証」だ。

 村上春樹であるが、その長編はファンタジーに分類することとした。小説として読もうとすると、何が何だか分からないが、ファンタジーなら、風変わりなキャラクターにいちいち目くじら立てることもないからだ。
 「海辺のカフカ」新潮社2002(新潮文庫2005) は、父によって心理的に追い詰められた少年が家出して精神的に回復する物語である。本来なら家に戻り父と和解するのがならいだと思うが、この場合父は殺されていて家には他の家族はいないため、家出先に戻ることになりそうだ。
 少年は有名な彫刻家である父と二人暮らしであるが、死への願望に取りつかれた父は少年に自分を殺させようとする。何故そんな残酷なことをたくらむのか?少年の母は、彼の幼いころに養女にした姉をつれて家出していたのだが、その短期間の愛人・妻への未練と復讐心から、二人の子も憎むようになってしまったらしい。「父を殺し、母と姉を犯す」と暗示にかけられ、実行を迫まられていた十五歳の少年は、思い余って逃げ出したのである。
 少年にもそのアンビヴァレントはあったはずである。自分を捨てた母と姉が憎い、恋しい。二人を追いだした(と思っていただろう)父が憎い、しかし見上げるような彫刻家である。 
 少年は、多分何らかの暗示を受けていたのだろうが、迷わず母(あるいは、母と思える人)の勤務していた高松の図書館にやってくる。どういうわけか別々に住んでいるのだが、その高松には姉に似た人もいたのである。少年は父の予言通り母なる人姉なる人とセックスをし、父のようなゲイの大島さんに導かれて現世に戻ってくる。
 一方、ナカタさんという知的障害者の物語が交互に現れるのだが、彼の役割は、閉じられていた戦争体験の蓋を開けもう一度閉じなおすことであった。少年の両親は、知らず知らず戦争の傷を受けた社会に呪縛されていたわけで、これはその呪いを解く儀式だったのであろう。もうひとつピンとこないのだが。
 著者自身が翻訳しているが、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて the catcher in the rye」1951 の影響は濃厚であり、この枠を使っていると考えられる。学校と父からの圧迫に(と感じているわけであるが)悩まされて家出した少年の行き先の一つが先生の家で、先生が実はゲイだったのかと思ってしまう場面がある。また、最後に少年の逃げ込む場所というのが妹の寝室なのである。ここではセックスはないが、深層意識では同じだと見られても仕方ないだろう。
 「ライ麦畑」の少年は、バーンズの詩「if a body meet a body comin'through the rye」のmeet をcatchと聞き違え、「ライ麦畑で遊ぶ子供が崖から落ちそうになれば捕まえる」歌と誤解して、そうのように世の役に立ちたいと思い込んでいる。本当は、二人が出会うとキスをする、と続くのであるが。要するに、直訳すると「ライ麦畑で体と体が一つになれば…」というような性的な歌なのであって、少年の深層意識を顕しているとも考えられる。
 ところで、村上春樹はサリンジャーには少年の精神的回復が描かれていないと、先の「インタビュー集」で批判していたが、そうでもないだろう。父とも信頼していたがゲイだと思い込んだ先生からも逃れて、妹のベッドに逃げ込むというのは思い切った行動だと言わざるを得ない。エディプス王のように娘と荒野をさまよう代わりに精神病院に入るのであるが、信頼できる人物を得て回復への強い意欲が感じられるのである。
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