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2012年01月29日20:44

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時代の中で(23)  政治と文学のふるーいテーマ

 黒古一夫「魂の救済を求めてー文学と宗教の共振ー」佼成出版社2006年 は宮沢賢治や大江健三郎など宗教的なものをモチーフとする作家を論じていると思って図書館から借りだしたのだが、この人は政治一筋で宗教的な人ではなかった。ウキぺデイアによれば、1945年生の筑波大学名誉教授で、全共闘運動を出発点として、小田切秀雄に師事した文芸批評家とのことであった。ならば、私と同世代であるというのになんという時代遅れか。
 最初に論じているのは吉本ばななであった。評判ばかりを聞いて読んでいなかった私は、あわてて図書館から借りだし、出世作「キッチン」1988と続編にあたる「満月ーキッチン2」を読んだ。これについては次項で検討する。ここでは、黒古の小説の読み方論じ方を検討したい。
 「キッチン」の主人公である女子大生は、唯一の肉親であった祖母を亡くして全くの一人ぼっちになる。しかし、「どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作るところであれば私はつらくない」と言って、精神の平衡をかろうじて保とうとする泣かせる場面であるが、これが黒古には気に入らないという。
 「その同時期に第三世界(開発途上国)では何千万という子供たちが飢餓に苦しんでいる・・・」というのに、自分は食べ物があるからよいというのかと言わんばかりである。こんな文芸批評を見たことがない。いや・・・ある。文化大革命の時の江青・毛沢東夫人の言いそうな言葉だった。
 黒古は、吉本ばななは「玩物喪志」だと追及する。この用語は、外国の名物にうつつを抜かして国政への志を失ってはならない、という中国の君主や政治家たちへの教訓として提示された言葉であって、小説家用ではないのである。似たような話は、ボーボアールが学生時代に、サルトルと友人の論争として紹介している。それは、夜のセーヌ川に映える明かりを美しいとみるか、その明りが深夜労働をさせられている女工たちの明かりだとしてもなお美しいか、という論争だったとのことである。
 しかし、これらの議論は同一面上では論じられないものであろう。黒古のものは政治と文学という次元の異なる、それぞれ独立して存在理由のある人間行為であり、ボーボアールのいうのは、美と倫理の問題であり、これまた独立した人間行為であろう。政治なり、倫理なりに従属してよいというのではない。それを本気でやれば、江青夫人の文化大革命になってしまう。
 小説家とは、政治がいかに理想に近づき、社会がいかに倫理的になっても、なお残る人間のむなしさを、あるいは男女関係を描くものではないのか。つまり「もののあわれ」である。黒古のいう政治的志を論じるのは、小説ならぬ「大説」という。中国や韓国では、最近までこの「大説」が主流で、日本のように永井荷風に人気があるなど理解の外だったそうである。鴎外や漱石までは分かるのだとのことだった。
 黒古は「都市の繁華街をうろつく若者たちの虚ろな表情、居酒屋で安酒を飲むサラリーマンたちのどこか哀しい顔つき・・・」などと、高いところから見下すが、そうだとして、だから「小説」が必要なのだといっても、たぶん、名誉教授の(これは嫌味)黒古先生には分からないだろう。土台、小説が分かっていないし、宗教はなおさら分からないようである。これを「論語読みの論語知らず」というのである。
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