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2012年01月18日18:04

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時代の中で(22)  ファンタジーのふるさと

 前回で紹介した坂口安吾の「文学のふるさと」はさらに先へ展開させることができるように思う。安吾は人間の現実をそのまま見据えることから文学は始まるというのだが、その先は二つの道に分かれていると思う。
 第1は写実主義である。古くは島崎藤村などの自然主義、田山花袋の私小説があり、さらに信仰を背景として出口のない状況を容赦なく切開する椎名鱗三もここに分類してよいだろう。
 ここで検討したいのは第2の道である。現実はどうにもならないことを承知の上で、「もし・・・ならば」を置いて現実を遮断し、バーチャルリアリティを提示するのである。つまりファンタジーである。安吾が例とあげる「赤頭巾」などは昔話、メルヘンであるが、ファンタジーはここから発展したものであろう。また、ウイキペデイアによれば、キリスト教の聖人伝である「黄金伝説 レゲンダ・アウレリア」ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230〜1298)作は、聖人たちの奇跡集であるが、これなど神話というよりファンタジーだと思う。
 ファンタジーが現実を遮断するとき、宗教的奇跡による場合方法がある。今でもクリスマス物語がたくさんある。デイケンズの「クリスマスキャロル」はその代表だろう。それに対して、誰にでもある「もし状況が違えば・・・」という期待を梃子とすれば通常のファンタジーになる。その中間的なものとして、宮沢賢治は、この世は今見えている世界だけではない、という信仰(現世浄土の思想、イーハトーヴォ)によってファンタジーを発生させている。
 日本のファンタジーの元祖は宮沢賢治だと思うが、「これはどこの国のはなしだ」と拒否された当時とすっかり様変わりして、今やファンタジー全盛期の様相である。少年・少女物だけでなく、成人用のファンタジーノベル大賞まであるのだから。日本人は私小説的な写実主義にはうんざりしたのに違いない。
 ファンタジーが思想に向かう場合としては、吉本隆明「共同幻想論」がある。柳田国男「遠野物語」を下敷きとして、人々が共通に持つ幻想(イメージ)の発生を解明して、これがついには国家にいたることを示した。
 石原慎太郎の政治エッセイ「国家なる幻影」も、政治的人間の共同性志向を前提にしたものであろう。
 ファンタジー、訳せば空想、夢物語は、ただの童話ではなく、むしろつらい現実を変えていく人間行為の始まりを示すものなのである。
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